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家族のひとりとして愛された
ペットたちのためのペット霊園

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〒940-0137
新潟県長岡市平2-5-7長福寺

やすらぎへの道

私の志す「仏道(禅道)」というものは、囚われた心から解き放たれ、自由な心境で世界を観ることであり、心穏やかでいつも頬笑みあり、心の赴くままに、思いのままに生きてゆくことにあります。
有名なお経である般若心経では、「観自在菩薩〜」と始まるのですが、この始まりにある観自在菩薩のように、
世界を自由自在に観ることができる者
自由で囚われのない精神
という禅の心境を得たいと思っているのです。

私たちの住んでいる世界は自由なはずですが、自由のようでいて自由ではなく、自らの囚われや思い込み、執着や決めつけ、差別や比較というようなもので心は縛られてしまい、自らが自らを不自由にしているのです。

これからお話する「十牛図(じゅうぎゅうず)」というものは、観自在の境地に至る修行の過程を分かり易く示しており、それぞれの修行の段階における境地と、私が得ている(完全ではないものの)やすらぎの心境をペットたちから学んだことを踏まえて紹介してみようと思います。

これは仏道を志す修行者だけのものではありませんので、自分の人生を鑑みて、自分の人生における事柄に焦点を当てて思いを馳せてみてください。

禅というものは、頭で考えるのではなく、心で想いを感じるものです。
言葉だけでは語りつくせない、目に見えない言葉もありますので、
心の目で見て読んでください。

1. 尋 牛(じんぎゅう)



まさに出発点であり、何ものにも囚われない真実の自己を探しに行く段階です。手に手綱を持ち、見失った牛を探している図です。

この第1図は見失ったものを尋ねるという段階で、まだ登場しておりませんが牛は「本来の自分(真の自己)」を象徴し、手綱を持った牛飼いは牛(真の自己)を求める自分を表しております。
つまり、本来の自分と今の自分との関係を、牛と牛飼いという関係に置き替えて、その関係の変化について順序立てて話しは進んで行きます。

気づき
一緒に暮らしてきた大切なペットを喪い、今まで側にいた大事な者が急に居なくなってしまい、この気持ちをどうしたらよいものか?他の人たちはどのようにしているのか?というように、戸惑う心を治めるべく、亡くなったペットの足跡を探して旅にでるようなものです。

亡くなったペットとは、心を共にしたパートナーで、心にぽっかりと穴が空くと感じるほどの存在ですから、いわば自分の分身でもあったも同然。自分にとって大切な存在であったはずです。
それなのに、この悲しみが周囲には理解されず、「たかがペットのことで」というように思われ、
本当にたかがペットなのだろうか?
人間と動物の命には差があるのか?
泣いてばかりいる私は心が弱い人間なのだろうか?
ペットが亡くなってこんなに悲しいのは自分だけなのか?
あの子はどう思っているのだろうか?
こんな私で幸せだったのだろうか?
というように、他の人たちはどのように考えているのだろうかと、あの子はどう思っているのだろうかと真実を求めるのと同時に心の救い手を求めて、インターネットで検索したり、ペットロスにまつわる本を読み漁ってみたり、人に話してみたり、人の話を聞いてみたりしている状況で、ここから自分探しの旅が始まります。

この図は、リードを持っている飼い主のようでもあります。
私もこのようにして、小学生の時に、命とは何なのか?どうして人は生まれ、生きているのか?私は何で生きているのだろうか?私にとってペットとは何だったのか?他の人はペットや動物・自然に対してこんな感情を抱いていないのか?というようなことを思い考え、自分探しの旅に出た気がします。

2. 見 跡(けんせき)

唯一の手掛かりである牛の足跡を見つけます。

この2図は道の上に黒く点々とした牛の足跡を見つけ、捜し求めていたものを見つけて、「あっ、これだ!」というように牛の足跡を見つけた図です。

この表現の禅宗的に意味するところは、お釈迦様の教えや経典を学び、読み聞きして一応の理解をして、真の己のあり方を見つけた段階を示しています。

道しるべを見つけて光明を見出した感じですね。

気づき
愛するペットを喪ったこの悲しみや胸の痛みを人に打ち明けるものの、周囲との温度差や無理解、悪意のない励ましの言葉などにより、自分の感じていること、思っていることが、他の人と違っていて、孤独を感じたり、不安になったり、自分と他人との思いの違いに途方に暮れることも多々あることでしょう。

「また飼えばいいじゃい」「まだ他の子がいるじゃない」と好意を示してくれるものの異和感を感じ、
「頑張って」「元気出して」「泣いてばかりいないで」と励まされては理解されていない感じがして、
亡くなった子は「私にとってかけがえのない存在なの」という事が分かってもらえないこともありましょう。

幼いお子さんを亡くした母親に「また産めばいいじゃない」「養子でも迎えたら」と言う人はいないでしょうが、対象がペットとなると、このようなことを言っていることに気付かないものなのです。

「頑張って」「元気出して」と言われても、そうしようとしていて、頑張っているけど、今の状況であることを理解されず、これ以上どう頑張ればいいのか?この状況でどうすれば元気になれるのか?できていればこんなに苦しい思いをしていないし、分かっていればこんなに思い悩むこともないのです。

ペットロスのことを理解されないこともある中で、同じくペットを喪って同じ経験をした人から、この気持ちを察してもらい、心に寄り添ってくれることもあり、周囲から孤立していると感じていた気持ちから、多くの人が同じような経験をしており、自分だけではないことを知り、ホッとすることでしょう。

こうして、足跡を見つけて、その先を求めて歩みを進めるのです。

このようなことを通じて、自分だけが悲しいのではなく、他の人も同じことを知って、自分の感じていたこと、思っていたことを受け止めてもらえ、少し冷静に考えることができるようになります。
そうすると、実は多くの人に支えられていることに気づいたり、素直に話せる友人がいることに感謝したり、必要としていた言葉に出会ったり、良い話が聞けたりして、助けられたり救われたりするものです。

ペットを通じて友人や知人となるように、ずっと前から縁を与えてくれていたように、あの子たちの足跡を追ってゆくと、新たな出逢いが与えられることがあり、この段階では気づく由もありませんが、ペットロスという足跡を見つけ、辿ってゆくと大切な宝物を見つけることになるのです。
そんな導きがあることも知らずに、自然とあの子の足跡を追って行くことになります。

愛するペットを喪ったペットロスは悲しみの道筋でもありますが、避けたり、逃げたりしても何も見つかりません。
勇気を持って悲しみの足跡を辿ってみると、大切な何かが見つかるかもしれません。

悲しんだり、悔やんだり、苦しんだり、恨んだり、怒ったり、いろいろと悩み考えていくうちに、自ら気づくのです。
私は動物が心から好きなんだ!
他の人が抱かないようなことを思ったり考えたりするのは、
あの子のことが大好きだからなんだ!
好きだからこそこんなにも悲しいのであって、
これほど悲しいということは心に愛があるからなんだ!
というように気づくこともあり、足跡を見つけた気がしました。

あの時、こうしていれば、こんなことにはならなかった。
こんなことなら、もっとしてあげればよかった。
というように後悔しては何度も繰り返し同じ事を思い返しては苦しく辛い思いをすることもあり、大好きだからこそ思ってしまう辛さに押し潰されそうになることもありますが、大好きだからこそ思ってしまわざるをえない想いがあることに、想える幸せに気づき、こんなにも好きなんだと再発見することもあります。

人から言われた言葉で心が傷つくこともあれば、たった一言で心が救われることもあり、足跡が消えかかったり、鮮やかになったりしながら、足跡を辿ってゆきましたね。

道中いろいろとありながらも、
ペットが好き!、動物が好き!、自然が好き!
ということに気づき、自分の捜し求めていたもを見つけ、歩みが速くなったような気がしました。

3. 見 牛(けんぎゅう)

くじけずに足跡を辿ることで、ついに牛を見つけだすことができた段階です。
これはっ!と牛を見つけて駆け出してゆく様子が描かれております。

ただ見るのではなく、ただ見つけたのではなく、自然と体が動かされるほど衝撃的なことで、言葉や頭では分かっているつもりであったことが、体験を通じて何かを得たりして、気付かされたことによって、ゆっくりとした歩みが速くなり、じっとしていた心が動き始めます。

ですが、まだ全容は見えず、見失いかけることもある段階でまだまだという感じです。

気づき
ペットロスのことについて少しずつ理解し始めると、様々な人たちが同じような経験をしていることを知り、いろいろな別れ方やいろいろな看取り方があることを知り、こんなに悲しいのは自分だけではないのだと知るものです。
そして、その人たちがどのような心境にあるのか、どんな思いをしてきたのかを見聞きすることで、自分の体験と踏まえながら、少しずつ愛するペットが亡くなったことについて、現実を受け止めるようになってくるのです。

そこからどのようにしてペットロスから立ち直ってゆくのかなどの話を見聞きして、暗いトンネルの先に光を見出したり、絡まっていた糸をほぐす糸口を見つけたりするものの、時には後悔の思いに押し潰されそうになったり、悲しみに明けくれたりして、大泣きしながらも、見えかけたり・見失ったりして、悲しみと後悔が繰り返し訪れることもあり、未だに全容は見えてきません。

同じ経験をした話を見聞きして、自分だけではないのだと安堵してみたり、自分と同じだと思いだして辛くなったり、同じ見解に出逢いホッと心が落ち着いたかと思えば、違う見解に出会っては心はどん底に沈み、心穏やかになれないこともあります。
ちょっとした言葉に心傷つき落ち込むこともありますよね。
良い時もあれば、良くない時もあり、心を見失いかけることがしばしばあるものです。
そんな時に、あっ、これは!と心が惹きつけられるものに出会ったり、求めていたものを見つけたりするのです。

私もそのようにして、多くの経験と言葉と心に触れることで、自分にとって大事なこと、自分にとって必要なことに出会ってきました。
その出逢いの一つ一つが実は不思議なことで、目には見えない何者かによって導かれていたのですよね。

私は動物が好きだから将来は生物学者になろうかと小学生の頃には考えていたこともあり、動物が好きだから獣医になろうと思ったこともありますが勉強が不得手な為に中学で挫折し、とにかく動物に関わる仕事をしたいなぁ〜と漠然としてはおり、いつのまにかペットの足跡を追いかけていたのです。
そして、心の奥底には猫の供養でお坊さんにお経を挙げてもらえなかった悔しさから、坊さんが猫の為にはお経を読んでくれないなら、自分で読んであげればいいんだ!と思いつき、いつか動物たちのためにお経を読んであげたい!と思ったにも関わらず、どうしたらお坊さんになれるかなんて分からず、見つけたり、見失ったりしておりましたね。

道を見失い、高校の時にはお笑い芸人を目指していてコンビを組んでいたくらいですからね。
でも、見失っていたのではないのです。メディアの力を利用して、芸人として人気を得て、影響力のある人になったら、ペットのこと、動物のこと、自然のことを語ろう!いっそうファンクラブを動物保護団体にしてしまおう!などと野心を抱いていたくらいです。

いろいろと将来のことを考えてみても、動物に関わることをしたいということに変わりがなく、一見違う職業に見えても、心はいつも「人と動物と自然がより良く暮らせる社会のために、この命を使う!」ということでした。

 

4. 得 牛(とくぎゅう)


ようやく牛を見つけ出し手綱を付けたものの、手綱を緩めるとどこかに逃げてしまうような段階です。

牛はどこかに逃げようとするので、牛飼いは逃がすまいとして手綱を引っ張ります。こちらに導こうにも、違う方に顔を向けては従わず、牛は思うようになってはくれず、困難な状況が続きます。

この状況を主客転倒させると、牛が牛飼いを引っ張っているとも言えます。
つまり、本当の自分(牛)と、迷っている自分(牛飼い)との葛藤がまだあり、現実の自己と真の自己とが綱引きしている状況で、まだまだ手綱を緩めることはできません。

気づき
自分の気持ちと同じもの、求めたいたものを見つけることはできたものの、そこにある言葉や想いを頭では理解出来ているつもりでも、感情は未だ思うようにならず、心が追いつかない状況で、牛と牛飼いが綱引きしている様子は、ペットロス中期の状況にとても似ております。

頭では分かっているけど、心が追いついてこないで、何だか元気になれないという漠然とした状況でもあります。

ここでも同じく主客を転換してみると、悲しみから立ち直るべく正しい道を進めるようにと牛は手綱をつけさせてくれ、後悔から自分を責めて傷つけようものなら、「そうではない!」と違う方に手綱を引っ張り、違う考え方があることに気付かせようとしているのですが、頑なに自らの後悔で苦しんでいるのです。
悲しみに沈み歩みを止めようものなら、「歩きなさい!」と手綱を引っ張り、もう少し先に良いことがあるからと導いてくれているのですが、どうも元気がなく外に出たり、人に会ったりするのが億劫になってしまい、自ら歩みを止めてしまっているのです。
無理して頑張っているようなら、「休みなさい!」といくら手綱を引かれても動じず、少しゆっくりとした方がいいよと教えてくれているにも関わらず、心の声を無視して悲しみを紛らわすために自ら無理して活動的に行動しているのです。
あまりの悲しみに後を追って死について考えてみたり、生きる希望を見失って絶望の淵にいたりする時には、「そっちじゃない!」と手綱を引っ張ってくれているようでもあります。

この場合は、手綱ではありませんでしたね。
この場合は、あなたとあの子の愛情の心の絆ですね。

ですが、未だ煩悩の人である私たちは、後悔しては自分を責めることを止めず、あの子たちに対する感謝の気持ちがいっぱいあるのに罪悪感から素直に「ありがとう」が言えずに、「ごめんなさい」とばかり言ってしまい、自分を受け容れ、自分を許すということとは程遠く、亡くなったあの子と心は愛情の絆が繋がっているにも関わらず、「ああでもない。こうでもない。」と手綱を緩めることができない状態と似ております。

後悔や自責の念に向かおうとする飼い主に、そっちじゃないよ!と導きを与えているにも関わらず、素直になれずに、思い留まったり、迷ったりしているようなものです。

この時間との戦いは過酷で辛いものでしょうけれども、この時の心情の善し悪しがあるからこそ、次なる気づきや目醒めに繋がってくるなんて思ってもおりませんので、ペットロスにおいても、何事においてもそうなのでしょうけれども、この時期が一番辛く感じることかもしれませんね。

愛するペットが亡くなってから、ある程度日も経過しており、最初の頃のような強い感情は穏やかになってきていて、感情の起伏は激しさを抑え、日常生活を徐々に送っているだけに、あの子のいない生活に空虚さを感じ、寂しさをじんわりと実感していて、悲しさや切なさがより身に沁みていて、涙すると心に痛く突き刺さるような感じを経験することでしょう。

私はダメな飼い主でしたから、多くの子たちを見送って、いろいろな経験をしているにも関わらず、同じ過ちを繰り返し、同じ後悔を繰り返し、一つ乗り越えても、その次が乗り越えられず、他にも至らないところがあって、動物たちが好きと言っていながら、思っていることに値しない人間なのではないかと心沈むこともありましたね。

心の歩みが順境の時には調子がよく、逆境になると全然ダメで、心というものは自分のものなのにも関わらず、まったく思うようにならず、ペットロスも一進一退を繰り返してばかりで、進んでいるのか、退いているのか、向かっているのか、違っているのかも分からずに、迷いながら、ただただ生きてきたように思います。

5. 牧 牛(ぼくぎゅう)

 

牛を捕まえるのに苦労したが、飼いならすことができ、もう逃げ出さない段階です。

自己と自己の葛藤が次第に収まってゆき、手綱を緩めても牛は逃げようとはせず、一緒について行くようになり、今までのような迷いがありません。

ですが、牛飼いと牛の間にはまだ距離があり、自分と自分との調和が一致しているとは言い難い状況です。

気づき
いつも、「自分が」「自分のせいで」と手綱を引っ張っていた方向が、その方向だけがすべてではなく、牛との引っ張り合いによって牛の気持ちを察するようにもなり、草を歯みたい時もあれば、ちょっと休みたいこともあり、トイレをしたいこもとあるのに、自分の都合ばかりの狭い視野だけで物事を考えていたことから少し離れて、牛の赴く方にも足を運んであげることによって、手綱を緩めてもよくなり、お互いに気持ちを通い合わせはじめ、共に一つの方向に向かうようになりつつあります。

後悔や自責といった自分との葛藤により、自分の未熟な面と対面することで、敢えて向き合わないようにしてきたことを認め、至らなかった自分と向き合い、未熟な自分を受け止め、徐々に変化の兆しが現れます。
「いつまで悲しみに沈んでいても、あの子は喜ばないだろう」
「苦しい思いをさせたかもしれないけど、私のために一生懸命に頑張ってくれたんだ」
「まだまだごめんねと言ってしまうけど、あの子に出逢えて、一緒に暮らせて、いっぱい幸せくれたことに感謝しなきゃ」
「いつまでも自分を責めていても仕方がない。このことを無駄にしないように変わろう」
「あの子が与えられた境遇の中で一生懸命に生きたように、自分もこの境遇で一生懸命になってみよう」
というように自ら歩みを進めようという気になってきます。

今までは周囲のことや生活のこともあって、無理して忙しくすることで悲しみを紛らわそうとしたり、周りに迷惑を掛けまいとわざと明るく振舞ったりしている自分ではなく、ようやく自分の心と素直に向き合えるようになり、頭と心と体がようやく同じ方向を向いて歩きはじめるという感じでしょう。

また、あの子の立場になって考えてみることができたり、あの子の気持ちを察することができるたりして、同じ出来事が後悔だけではないことや、自責だけでないことに気づき、あの子が伝えようとしていたことを感じ取ったり、受取ることができたりして、心はあの子たちが示している愛情と感謝の方向に身を委ねることもでき、共に同じ方向に歩みを進めるようになるのです。

愛するが故の後悔であった心の固まりを徐々に解きほぐし、凝り固まった愛情は少しずつ優しさとなって穏やかな気持ちになることで、共に暮らしてきた日々に幸せがいっぱいあって、いっぱい笑わせてもらい、いっぱい癒され、いっぱい助けられ、あの子がいたお陰で今があるというように、「ごめんね」から「ありがとう」が言えるようになり、心から感謝できるようになってきます。

そうして、いろいろなことに感謝できるようになり、出逢えたことにまで遡り感謝できるようになると、別れる悲しみはあるものの、それよりも出逢えて一緒に暮らせたことへの想いが勝ってきたりするものです。

人によっては、自分に大切なことを伝えるべく来てくれたようでもあり、
人によっては、この期間を支えるべく側にいてくれたかのようでもあり、
人によっては、まるで人生がプログラムされていたかのようでもあり、
出逢うべくして出会って、一緒になるべく共に暮らし、いつかは別れることになっていたんだと、諦めなのか達観なのか、別れの経緯はともかくとして、別れがあることを受け止めつつあります。
この時になってくると、亡くなって間もない時の辛く悲しい滝のような涙ではなく、自然とあふれ出る涙となっており、温かみすら感じる切ない涙になったり、感謝の気持ちから湧きあがる涙になたりと、少しずつ心境が変わりつつあります。

しかし、感情をコントロールするということはまだ難しく、調子の良い時もあれば、ふとしたことから沈むこともあり、まだまだ感情の起伏は大きくて、コントロールしているというよりも、左右させられているというところもあり、心の調和には未だ至らず、まだ距離がある感じです。

良い時を共に過ごすことができた。
素敵な時間を共有することができた。
いい人生を共に歩むことができた。
ということを思い感謝できるようなこともあれば、そう思うと、今のいない状況と比べてしまい悲しくなることもあり、理性では分かっていても、感情も穏やかになってきても、心がまだ追いついていない感じで、まだ間があるものです。

私は多くの命を看取ってきて、あの子たちから教えられたこと、気付かされたことがいっぱいあり、そのことを自分の人生で活かしてゆこうと思うようになって、至らない自分であれば、足りる自分に変わろう!、未熟な自分であるのなら、成熟した自分になろう!というように、こんな至らない自分でも愛してくれたのだから、もっと素敵な自分になって、よりより飼い主になれるように変わろうと歩みを進めてきました。

今さら変わったところで過去を変えることはできませんが、このまま変わらずにいれば、いずれは同じ後悔をすることになりますし、変わらないままであれば、変えようという気持ちがないことになり、あの子の命が無駄になってしまうのではないかとの思いから、過去は変えられなくても、変えられる未来は変えようと臨んできました。

後悔することも多々あり、あの時していれば後悔せずに済んだことがあり、もうあんな後悔をしないためにも、思ったことをそのままにせず、思ったことを行うようにして、もう後悔しないように生きるべく、今を生きるように変わってきました。
あの子たちが毎日を一生懸命に生きたように、自分も毎日をちゃんと生きよう。

自責にしても、いろいろなことがありましたが、次には同じことで過ちをしないように、知るべきことは知り、学ぶべきことを学び、すべきことを等閑にせず、自分にできることはきちんとしようと変わってきました。
そうして頑張ってきても、いまだ足りないことがありますが、努力の途中だと思い、自らの至らなさを素直に受け止められるようになりました。

あの子たちが与えられた環境の中で、自分にできることを精一杯していたように、自分も自分の役割を果たそう。今の境遇に不満を抱くのではなく、この境遇の中で幸せを見出し、境遇に不満を抱くのであれば、そうならないように改善をしてゆくことで、環境整備をしてゆくべく、自分にできることをするようになってゆきました。

頭で考える多くの事柄を望み、叶わないからと何もしないのではなく、自分の手の届くできる範囲のことをまず行い、すべきことを果たしてゆくことで、より先のところまで手が届くように努力を続け、望むものに少しずつ近づく生き方に変わってゆきました。

いっぱいの葛藤から学び得たこと、気づき得たことはすべて、あの子たちとの出逢いから始まり、一緒の暮らしの中で培い、別れを通じて教えてくれたことであり、一緒に暮らしている時だけではなく、この先の人生で大事なことを教えてくれた偉大な教師であり、ペットたちは私にとってのかけがえのない尊い存在として、いつも心と共にあるのです。

6. 騎 牛 帰 家(きぎゅうきか)

 

牛と人が争うことなく一心同体となっていて、「牛の上に人なく、人の下に牛なし」というような段階です。

図では牛と人の間には距離がなく、一体となっている様を手放しで上に乗っている図で示して、自分との間に調和が生まれ、全体で一つの趣を帯びてきております。
それが、笛を吹きながら乗っている姿に表れており、自分自身との葛藤がやんで、本当の自分であるという自然さがここにはあります。

このあり方は自分だけのことではなく、他者との間にも、周囲との間にも調和をもたらし、ゆっくりとした時が流れております。

気づき
別れ際のことだけに囚われていた自分から解き放たれ、一緒に暮らしたすべての事柄に向き合えるようになり、出逢えたことに感謝でき、一緒に暮らせたことに感謝でき、後悔することや至らなかった点は素直に謝り、過去を振り返ってばかりで前に進もうとしなかった時は終わり、今までのことを踏まえて前に進もうと歩み始めている段階です。

何度も後悔しては同じことを繰り返し思っていたことから、思い返すにしても一緒に暮らした様々なことに振り返れるようになっていて、辛い後悔の日々だけではなく、多くの幸せの日々を思い返せるようになっておりましょう。

あの子たちからもらった幸せや優しさに気づき、あの子たちの心や魂に触れたかのようで、より深い愛しさとなり、改めて切なさと共に感謝の気持ちが深まりましょう。
また、自己との対話により、向き合おうとしてこなかった自分の未熟な点に気づき、良いところもあり・至らないところもある自分を、ありのままの私を受け止めてくれて、ありのままを好きでいてくれたことに気づき、あの子たちの無償の愛を感じることでしょう。

一緒に暮らしていた時には思いもしなかった、あの子たちの純粋な魂に触れることで、いろいろなことに気づき、自分だけの独りよがりの考えから離れ、本当の意味で、ようやく愛するペットの死を受け容れはじめるのです。

人と動物という種族の違いを超えて、交わした愛情には違いはなく、むしろ人間関係よりも心の距離が近い関係性を培い、「人の下に動物なし、動物の上に人なし」というように、あの子は自分にとってかけがえのない愛しい存在であることに変わりはなく、「あの子でよかった。私でいいんだ」とお互いにとって大切なパートナーであったことを再認識することができ、心に調和が生まれてくるのです。

ここに至るまでの間に、いろいろなことがあったお陰で、気づくことができ、学ぶことがあり、今までであれば周囲や社会のせいにしたり、時や運のせいにしたりしていた自分から離れ、いろいろなことに素直に向き合い、いろいろなことに感謝できるようになってきます。

そうなってくると、ふとあの子の存在を感じることがあったり、何気ない光景からふとメッセージを貰うことがあったり、
不思議と時が良いように運び、不思議と良い人と出会うことになったり、必要としていたことに恵まれ、必要としていた言葉を貰い、何者かが人生を見護っているかのように想えることがあって、あの子の魂というようなものを感じ得ることもありましょう。

このような事を通じて、あの子たちは心の中で生きていて、共に人生を歩んでいることを実感して、生と死の垣根を越えて心を感じ、愛情はそのままあり、消えることのないものがあると感じることもありましょう。

今までのような不安感や孤独感から離れ、あの子の魂は自分の心と共にあること、包まれていること、見護られていることを感じることで、心に安らぎが訪れることがありましょう。

私はようやく自分らしい自分を見つけた気がしました。
ただ動物が好きということから足跡を追っているうちに、いろいろなことを経験し、いろいろなことを学び、いろいろな葛藤や心の悩みがあり、それらを通じて多くの得るものがあり、自分と向き合うことで本当の自分を見つけたのです。

時間は掛かったけど、回り道することで、寄り道したことで、得るものが多くあり、「これでよかったんだ」と納得できるようになり、いろいろあった人生にようやく感謝できるようになりました。

あの子たちと出逢わなければ、あの子たちから人生を学ばなければ、今の自分にはなれず、いろいろなことがあったお陰で、今の自分になれたのです。

自分の良い所も悪いところもあって私であり、それなら良いところはもっと伸ばし、もっと広げて豊かにし、悪いところをよく知ることで、直すべきものは修正し、付き合い方をわきまえることで対応できるようにして、良い事を増やし、悪い事を減らす努力をして、成りたい自分になれるように自分創りをしてきました。

歩む道も牛に沿って、牛に先導されたかのように、将来、動物保護や自然保護がしたいから動物園が近い大学に入学して、将来のために必要なことを得るための時間として、人生から4年の時間を貰い心と体を鍛え養い、動物園でアルバイトすることで選択肢を得られるようにとの考えから大学進学を決めたほどで、ペットが好き!動物が大好き!ということから、自らの人生を歩むようになっていたのです。

様々な葛藤を経てきたことで、もう後悔する人生は歩まないと決めていましたし、心の想いを大事にすることで自分らしくあり、そんな生き方が心地よく、私の人生は動物たちと共にあることが当たり前で、図にあるように鼻歌でも歌いながら、過ごせるようになりました。

昔は、動物たちが心から好きということが弱い人間であるかのように見られるのではないか?と思い、強くあろうと背伸びしたこたこともあれば、素直な思いを恥ずかしいものと思い、そうでない振りをしたこともありました。
今は、愛するペットが亡くなれば、大いに泣き、涙が枯れるまで涙して、それでいて自分らしくいられます。

昔は、動物たちに命を救われたこと(自殺未遂)は、恥ずかしいことだと思い込み、語ることをせず、明るく元気な者であるように振舞って、底抜けに明るいバカな自分を演じていたこともあります。
今は、そんな自分も自分だし、命を救われたからこそ、恩返ししようとしているので、恥ずかしい事ではなく、動物たちに命を救って貰い、命を与えてくれたことに感謝していて、生きていることに誇りを感じるくらいです。

昔は、素直であること、真面目であること、考え過ぎることで、周囲との違いに戸惑い、いじめられた経験から、いじめられることに臆して、周囲に合わせる生き方をしていた時期もありました。
今は、素直であることはとっても素敵な事で、私の良いところだと思っているし、真面目であることは良い事で、そのお陰で成り立つことが多々ありますし、考えることができるということは、心を自由にすることでもあり、素直さと真面目さが補助してくれると、これほど素晴らしいことはありませんので、自分らしくあることで、心豊かでいられます。

昔は、明るすぎる自分を演じていたので、バカな行いもいっぱいしてきました。
そのせいで、本当の自分というものと、演じている自分との間に大きな溝があり、本当の自分でいたいのに、それが認められるかどうかに恐れて、演じている自分が認められることで満足するようにしておりました。
今は、ありのままの自分でいいと思っているので、他人からの評価や認識は皆さんの自由なので任せることにしていて、あの子たちが好きでいてくれたこの自分であることが、何よりの自分の評価であり、より良い自分らしさで周囲とも調和が取れたら、こんな素敵なことはありません。

昔は、優しいということが良い事だと分かっていても、心が弱いことの反面でもあるのではないかと思い、心の強さを求めて過酷な事に挑み、過度に肉体を鍛えてみたりして、強さを誤っていたこともありました。
今は、優しさは強さであり、強さは優しさを広げ、心の想いが全ての始まりであることを実感しており、弱い優しさは軟弱で、強い優しさは折れやすく、優しさは強さ弱さを兼ね備えた柔軟さによっていることを、回り道をしたお陰で得られたように思うと、今までの紆余曲折は間違っていなかったと思えます。

周囲に流されていた自分ではなく、ようやく自分の時間を得ている感じがあり、今を生きているという実感があるのです。


7. 忘 牛 存 人(ぼうぎゅうそんにん)

 

もうそこには牛の姿は無く、人だけが自然の中に佇んでおります。

人牛一体という境地から先に進み、さらなる自然と同一化している状態を表しております。
もはや真の自分を得ているので、ここに牛を描く必要なく、
探して求めていたものは自分となって存在しているので、
人の姿だけが描かれているのです。

気づき
徐々に亡くなったペットのことを思い出して涙することは少なくなり、一緒に暮らした豊かな日々を思い返す事ができるようになっていて、あの日のことを思い返せば涙が流れることもあるけど、悲しみや後悔に引きずられることはなく、また笑顔になれるようになってきます。
いずれの日を思い返しても、心から涙し、心から笑い、素直な気持ちで感情がコントロールされ、心は穏やかな状態を保てるようになっていることでしょう。

いつまでも悲しみに沈んでいることが愛情を表現することではないことを知り、自分がこの世で幸せになることが、あの子の願いでもあり、今までもずっとそうしてくれていたことに感謝し、あの子が愛してくれた自分を受け容れ、今を精一杯生きようと変わるのです。

そうやって、今を一生懸命に生きていると、思い出す事も減り、思わないこともあり、愛情が薄れていったのではないかと自分に問いかけることもありますが、心に想いは確かにあり、ずっと好きな気持ちは何も変わらず、心には確かな愛があるはずです。

今まで泊りがけの旅行に行ったことがなければ行っていいのです。
あの子に申し訳ない気持ちになることはありません。
心と共に生きているのですから、一緒に旅行に行けばいいのです。

趣味を制限してあの子に寄り添っていたのなら、その趣味をすることで楽しんでいいのです。
心と共に生きているのですから、楽しい気持ちを共に味わえばいいのです。

あの子が食べれなかったことを気にすることはありません。
美味しい物を食べて、あの子の好物を味わっていいのです。
心と共に生きているのですから、美味しいねって微笑んでいいのです。

新しい子を迎えたい気持ちがあるのに、あの子に悪いと思って抑える必要はありません。
あの子と出逢った時のことを思い返してみてください。
何故か、あの日、あの場所で、お互いの人生が交わるようになっていたはずです。
出逢う時には出会うものですから、心を閉ざしてはいけません。
あの子が生まれ変わってくるかもしれないし、あの子が誰かを紹介して連れてくるかもしれません。
新しい子を迎えていっぱい笑っていいのですよ。愛は減ることはありません。
あの子を愛したまま、新しい子も同じように愛せるようになっているはずです。

皆さんが想っている子たちは、すでに仏さまになっていて、皆さんが幸せになることを望む守護者ですから、後悔を解きほぐし、自責を止めて、償いを手放し、幸せになっていいのです。

あの子たちが見ていた皆さんの笑顔が見たいことでしょうから、見せてあげて下さい。

「また生まれ変わってきてね!」というのであれば、こちらでいっぱい楽しんで、幸せになって、早く生まれ変わりたーい!と言わんばかりに急がせましょう。

「あちらに行くまで待っていてね!」というのであれば、いっぱいの土産話を用意すべく、あんなことも、こんなこともあったよと言えるように人生を謳歌しましょう。

私は人生を謳歌しておりますよ。
想いを大事にして、想いを形にして、想いを表現して、心のままに、時の示すままに、事の起こるがままに、縁が導かれるがままに、生きております。

楽しい事をして、よく笑います。
良い笑顔を見せてあげたいですから。

美味しい物を食べて、にんまりします。
美味しさを伝えたいですから。

善い事をして、良しとします。
誇らしく思わせてあげたいから。

動物たちと共にあり続けます。
命を救って良かったと思って貰いたいですから。

幸せになります!
あの子たちに貰った命ですから、大事にします。

1
日を大事にして生きてゆきます。
あの子に生きていて欲しいと願ったように。

そうして、感謝の気持ちから自らの使命を果たします。
動物たちから心を救われたから、今度は私の番です。


8. 人 牛 ? 忘(にんぎゅうぐぼう)

牛はおろか人さえも忘れ去られ、無の境地である空の段階です。

大きな円が描かれているだけで、何も描かれておらず、本当の自分になったことさえも捨て去り、捨て去った跡すらも残さず、17で苦労して、努力して、得られた本当の自分すらも、惜しみなく消し去られております。

何ものにも囚われない空の境地ですね。

気づき
ここでは、今まで築き上げてきたことで得られた本当の自分すらも手放すのです。
人はいろいろな執着や囚われによって、自分自身を縛り、自分自身に足枷し、自分の思い込みによって自らを不自由にしてきたのですから、17でようやく手に入れた本当の自分というものすらも、この自分に囚われてしまい、また本当の自由を見失ってしまうので、辛かった、苦労した、努力したということをも手放すのです。

いったんリセットするというと聞こえはいいのかもしれませんが、リセットしたら失ってしまうかもしれませんよね。
そんな心配からリセットせず、せっかく手に入れた自分なんだからと固執してしまうと、これが囚われの源になって、結果としてまた17を歩むことになってしまうのです。

せっかく苦労して手に入れたものを手放すなんて考えられないことでしょうけれども、本当の自分であれば手放してもいいはずです。
体で覚えたことはなかなか忘れないもので、何十年も自転車に乗っていなくても乗ることができたり、何十年もスキしていなくても意外とできたりするもので、悩んで・苦しんで・苦労して得たものは体に備わっていて、逃げてはゆきません。
全部が自分自身となっているのです。

免許や資格というもの同じです。
一生懸命に勉強して、努力して学び得た技能や技術により資格や免許を得られたとすると、その免許や資格証明に固執してしまいがちですが、運転免許証を家に忘れてきても車の運転はできますし、資格証明書を失くしたとしても技能は身についているものです。

一生懸命に努力して汗水たらして頑張ったことを、殊すらひけらかす必要はありませんし、せっかく時間と労力を掛けて手に入れたのだからと、元を取り返すべく使わなければもったいないとか、これを元にしてより多くを手にしようとか思うから、また同じことの繰り返しになるのです。

いっぱい努力して苦労したのなら、努力できた・苦労したというだけでいいのです。
いっぱい時間が掛かったのなら、時間が掛かったなぁ〜というだけでいいのです。
いっぱいお金が掛かったのなら、お金使っただけのことはあるな!というだけでいいのです。

もう手綱はいらないはずですし、手放すとか、手放さないとかを気にする必要はなく、自分は自分となっており見失うはずもないのです。
そうして何も気にせず、あるがままでいられるようになり、心はとても穏やかで、自分という殻を打ち破ったかのように、世界は広く自由で、自分との境目すらない空の境地となり、人間と動物という差別や区別は無くなり、植物−動物−人間−自然−地球−宇宙というものとが一つに溶け合った調和状態となります。

時間があるような、時間もないような、ふと目覚めたような、価値観の変容する瞬間です。

私の場合は心という枠が取り外されたような感覚で、心は自由になり広がってゆき、自分を包んでいる身体すらも枠が外れ、自分との境がなくなり世界そのものになったような感じで、自分という存在はとても小さくて、世界に包まれているように見え、あらゆる事象と関わり合っていて、一人で存在しているのではなく、多くの支えがあって存在しているということを不思議な知覚で体感したというような感じですね。
言葉にするのが難しく、溶けていくような感じとか、全体で一つという感じとかで、なんだか閃いたという感じと言いますか、解かるということはこういうことなのかと言いますか、変な表現をしていますが、新しい自分になったという感じですね。

今までの悲しみも、後悔も苦しみも、ぜんぶ含めて自分になっており、一つ一つに囚われるのではなく、自分らしいというように思えており、過去のすべてが今に至っており、過去を含め今あることを自覚していると言えましょう。

修行中に座禅をしている時には、外から聞こえてきた音が、自分の内側から聞こえてくるように感じたり、体と床が一つになっていてその境目を感じなくなり、今まで知覚していた自と他の境が曖昧になり、一つであるように感じるようになってから、座禅が苦ではなく楽に変わりました。

9. 返 本 還 元(へんぽんかんげん)

  

何ものにも囚われない空の境地を越えると、そこには主人公の姿はなく、ただ木石が描かれているだけで、今までと変わらない日常の光景がそこにはあります。

ふと気付くと、自分探しをする旅に出る前の世界と何ら変わらない世界が目の前にあり、自分は元の世界に戻っていることに気が付くのです。
今までと同じ光景であるのに、それまでとは異なり、あるものをあるがままに、何の抵抗もなく、自然と受け容れることができている段階です。

気づき
「本に返り源に還る」ということで、禅的いいますと「死して蘇る」ということになります。
真の自己を得る道を歩んできて、第七図の自分で落ち着いてしまうと、「自分は自分」というような自己中心の自我に浸ってゆき、最初の状態に戻ってしまうので、第八図の空にてそんな自分からも囚われることなく打ち消して、この第九図で新たなる自分として蘇るのです。

すると、すべてのものが、あるがままで、世界は広く、美しく、日ざしは心地よく、風は気持ちよく、今まで見てきた同じ世界が違う世界であるかのように輝いて見えるのです。
空は広くて蒼く、地は堅く何者をも支え、木々は命に充ち碧で、光は優しく彩りあるように輝きを放ち、鳥の鳴き声は心地よく、子供の無邪気さに自然と微笑み、空気は清らかで、歩みは軽く、今まで気づいていなかっただけで、元々ここにあったことに気づくのです。

今までは、その日の気分で異なることもあれば、利用価値のあるなしで決めていたり、好き嫌いで勝手に判断していただけで、自分勝手に思い込んでは自分を縛りつけていて、囚われて物事を見ていたので、見ているようでいて見ておらず、あるにも関わらず気に掛けず、自分の心の中だけの世界であったかことを知るのです。

いろいろと悩み苦しみ、思い考え、ああでもない・こうでもないと右往左往していたは、自分の心の中で起こっていたことだと気づくのです。

世界が変わったのではなく、自分が変わったのです。

そうなんです。自分が変わったのです。
私が私ではなくなり、私になったのです。

生きとし生ける者すべてに命の尊厳があり、命が愛おしく、いろいろなことに感謝するようになり、見るものすべてが新鮮で、毎日が発見の連続で、生きているという感じです。
いろいろな人生の出来事があって今があるので、すべてのことが受容でき、良い事も悪い事も含めて、すでての出来事は私の人生にとって必要なことだから、辛いことも、悲しいことも、楽しいことも、嬉しいことも、好きなことも、嫌いなことも、人生で起こり得ることのすべてを大事にしようとなり、今を生きるようになったのです。

自分が変わることで世界が変わったのです。
心が変われば思いが変わり、思いが変われば言葉が変わり、
言葉が変われば行いが変わり、行いが変われば習慣がかわり、
習慣が変われば人格が変わり、人格が変われば周囲が変わり、
周囲が変われば社会が変わり、社会が変われば世界が変わる。
というように、心の変化から世界が変わったのです。

10. 入 廛 垂 手(にってんすいしゅ)

  

(てん)とは社会を意味しており、社会に手を差し伸べるということで、「自分にできることを他人に心から親切にする」というのが人の道であり、宗教の目指すところでもあります。

この境地に達した人は不思議と顔はにこやかで、言動は穏やかで、偉いのか偉くないのか分からない風貌で、自己を誇るわけでもなく、聖者ぶるわけでもなく、振舞いはごく自然で、心は自由でこだわりのない自己を得ております。
出会う人はその人柄に感化され、心の中にある苦しみや悲しみが取り除かれ、心癒される存在となるのです。


■気づき
この最後の図の左に描かれている人は最初に描かれていた牛飼いで、悟りの境地を得て、人を幸せに導くための旅をしていて、困っている人、苦しんでいる人のためになるべく手を差し伸べている図となっております。

この図が示す境地は、自己とは「我と汝」というように、自他のすべてが「我」であることをも示しており、囚われてない自由な自己は開かれた心ですので、他人の悲しみや苦しみに寄り添い、他人の幸せや喜びを祝う、自他の違いなく共感できる人なのです。

愛するペットを喪い、この悲しみを乗り越えた人は、愛するペットを喪って悲しんでいる人に手を差し伸べることが出来る人になります。
その悲しみを知っているからこそ、理解することができ、共感することができるのです。

ちなみに、この左に描かれている人は図柄からもそんな感じがしますが、悟りの境地を得た七福神の布袋様だとも言われております。
慈恵と和合の神様で、福と富をもたらす金運の神様としても信仰されております。

メーテルリンクの「青い鳥」で、幸せはすぐ近くにあったという話のように、牛を探しに旅に出たものの、牛は自分自身の中にいたという感じで、ものの見方によって、ものの考え方によって、世界は変化して、もともとあったものに気が付き、それまで見えていなかったものが見えてきたのです。

私が愛した動物たちの命は尊いもので、命の尊さには種族の違いはなく、うちの子を思うように、他の子を思えるようになり、そこには同じく愛されるべく命があることに気づき、自他の違いを越えて、命を慈しむことができるようになり、同じ命が自分にあり、同じ命が他人にもあり、自分のために・他人のためにという枠を超えて、より多くの者たちのためにと想いが広がってゆきました。

最初は自分だけのための出家で、サラリーマンに戻るつもりだったが、いつも間にか、みんなのためにもお坊さんであり続けようと変わってゆき、うちの子たちに挙げてあげたかったお経を、他の子たちにも挙げてあることができるので、同じ命なのだから、同じことをしてあげたくなったのです。

すべてが関わり合いの中で生かし生かされているのだから、誰かのためには自分のためにでもあり、自分のためにが誰かのためにでもあり、「誰・彼」「我・汝」を含めて一つの関わり合いの中にあり、思いや優しさというものが、自他の境を越えて自然と広がっていったのです。

かけがえのない命との出逢いから喜びや楽しみ、慈しみや優しさという愛情を交わし合い、いっぱいの幸せを貰い、いっぱい愛しているから、いっぱい悲しいのであって、いっぱいの思いがあるから後悔が尽きないのであって、愛することを知り、愛されることを知り、出逢いの素晴らしさ、命あることの素敵なことを知って、出逢えたこと・共に生きたことに心から感謝できるようになって、悲しく辛い別れも含めて感謝できるようになったのです。

動物たちは心清らかで、私の心にいつも寄り添ってくれました。

人間ではないので同じ言葉は話せませんが、お互いに命のある者同士、心ある者同士ですから、相手のことを思いやっていれば、自然と心は通じ合います。
言葉は違っても言葉を交わし合い、姿は違っても命の違いを越え、共に心と心で愛情を交わし合い、共に生きる暮らしの中で愛情の絆を育み、お互いにとってかけがえのない者同士になれたことを、とても有難く、ともて嬉しく、とっても素敵なことだと思うのです。

うちの子たちは、「自分にできることを心から親切にする」ということを私に教えてくれました。
人間にはできない、動物にはできない、という違いを越えて、自分にできることをしてくれたのです。
人には人のできることを、犬には犬にできること、猫には猫に、鳥には鳥に、それぞれだからこそできることを。
あるがままを受け容れ、違いなんて気にすることなく、自分らしく、心からの無償の愛情を施してくれたのです。

私は多くの動物たちから愛され、共に暮らす人生でいっぱいの心を貰いました。
多くの別れから、様々な悲しみや辛い経験をしてきましたが、今となってはそのお陰でいろいろなことに気づき、多くのことを学び得ることができました。

愛する者との別れの悲しみから、人生における素敵な宝物を見つけることができ、私は多くの動物たちから愛されていることを知り、愛情に種族の違いがないことも学びました。

また、愛は生死の境を越えても、なお続くもので、愛は想いの限り永く続くものだと知っております。

私の心の中でみんなは私と共に生きており、私の想いはずっと大好きなままで、見える・見えない、感じる・感じられないを超えて、私自身にもなっていて、みんなが私の人生を見護ってくれているのです。
そのお陰で、私は一人ではないことを知りました。

私の中には多くの魂が宿っており、思い出せばいつも心の中で会うことができるので、寂しくないと言えば嘘になりますが、あるがままを受け止められるようになりました。

また、不思議なことかもしれませんが、導かれたり、護られたりしており、人生がなるようになるべくしていて、側にいてくれていることを強く感じるのです。

こんな私になれたのは、欠点の多い至らない飼い主だったにも関わらず、私のあるがままを受け容れてくれて、無償の愛を施してくれた動物たちのお陰なのです。

ペットなどと呼ばれていて、人よりも格下のように扱われ、偉いのか偉くないのか分からぬ可愛らしい容姿で、楽しい時も辛い時も側に居てくれて、いつも心に寄り添ってくれて、私に優しい手を差し伸べてくれたのです。

みんなは私に「自分にできることを心から」してくれたのです。
この恩に報いるべく、私は「私にできることを心から」することにしています。

だから、お経を挙げるのです。
供養することが、今の私にできることだから。


最後に、この十牛図は出家修行者の在り方を示したものではありますが、それこそ囚われであり、何かをきっかけにしても悟る境地は同じでしょうから、誰のためではなく、誰ものためであるのです。
どんな職業にしても、どんな生き方にしても、求めて歩み続ければ、同じ悟りの境地に達するもので、同じ山の頂きに向かうルートはそれぞれであっていいのです。

仏道の修行や座禅をしなければ悟れないことではありません。
修行は座禅は悟りを得るための一つの手段であって、目的ではないのです。

皆さんの人生に与えられているルートを歩み進めればいいだけで、何かをきっかけとして足跡を追ってゆけば、その歩みの先には安らぎの境地がありましょう。

この十牛図が、皆さんの心に何かを見つけられる足跡になればと、ここに記します。

ペット霊園ソウルメイト

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