11. 喉仏(のどぼとけ)

今回は、喉仏というお骨についてお話します。
のど仏と聞くと、男性の首のあたりの出っ張りを連想しがちですが、喉仏というのは、第二頸椎となりますので、男性だけではなく、女性にもあります。
この第二頸椎は、人を火葬した際にも説明があります(ない時も多い)が、ちょうどお骨の形状が手を合わせて合掌しているような形で、
さらに、僧侶が着ている衣の両袖があるようにも見えることから、衣を身にまとった仏様の姿をしているということで「喉仏(のどぼとけ)」とも言われております。

このお骨は人だけにあるお骨ではありません。
首から2番目のお骨である第二頸椎ですから、犬にも、猫にも、うさぎにもあり、小さなハムスターなどから、大きなゾウやキリンに至るまで、みんなにあります。

それが不思議なことに、みんな同じ仏さまの姿をしているのです!

種族が異なれば、形態が違いますので、お骨の形状は異なるのが当然で、お骨の形は似ているようで同じではありません。
ですが、喉仏の形は種族が違っても同じ姿をしているのです。
ただ、大きいか小さいか、細長いか幅広いかという違いだけです。
これは、個体の大きさや体型によるものですので、私たち人間であっても体の大きい人は喉仏も大きく、細身の人は喉仏も細めで、
大きい小さいはその人の元々の体型によって違ってくるだけです。

種族の違いによって大なり小なりはありますが、みんな仏様の姿をしているということが何かを訴えているようでなりません。

この第二頸椎というお骨は、頭を支える第一頸椎の次にあり、体と頭を繋ぐ生命の根幹を支えている重要な役目のお骨で、
頭と体の間に位置しており、まるで精神と肉体をつなぎ止めているかのようでもあります。
そんなところに、仏様が合掌している姿のお骨が存在するのですから、生命の不思議さを物語っているように思えてなりません。

仏教の開祖であるお釈迦様は、命の本質を見抜いており、「すべての命は尊い」「命の中に仏が宿る」ということを言って、
すべての命は等しく平等で、すべての命に上下はなく、みんな尊いものであると、見た目の違いや種族の違いで差別をすることのないように教えを説きました。
見た目の姿や種族の違い、肌や髪・眼の色、言葉や文化の違い、大きい小さいに関わらず、
あらゆる命は仏さまからの授かりものだから尊いのであるということを、仏が宿るというように言って、みんな仲良く暮らしなさいと教えを説きました。

お釈迦様が仰ったから尊いのではありません。
命には代わりがありませんから、代わりができないことから、かけがえがないのです。
命には天から与えられた使命があり、お互いに支えながら、お互いに助けながら共同生活をしており、
欠けてはならない存在だから、かけがえがないのです。

命には代わりがなく、かけがえのない存在だから、すべての命は尊いのであって、
あの子は代わりは誰でもなく、自分にとってのあの子であって、あの子にとってのあなただから、尊いのです。

お釈迦様が仰ったから仏が宿っているのではありません。
共に暮らすことによって、支えられ、助けれらえ、励まされ、癒されてきたのです。
まるで仏様がペットの姿を借りて側に来てくれていたかのように、
あの子のお陰で今があると言えるほど、人生を救ってくれたのです。

神仏に願う幸せというものを、あの子たちは叶えてくれたのですから、あの子の命の中には仏様が宿っているかのようでもあります。

お釈迦様はお骨の形のことなどは知らなかったことでしょうが、火葬してみるとお釈迦様の言う通りで、みんな同じ形をしているのです。
家族や親族の火葬で人のお骨を拾うこともありますし、僧侶ですから人のお骨を見る機会が多いだけに、喉仏の形は良く知っており、
命の中には喉仏という仏様の姿をしたお骨が宿っており、人間だけではなく他の動物たちにも同じ形をしたお骨が宿っていることが不思議でなりません。

これは命が平等であることを示しているようでもあり、仏様には差別や区別などないことを示しているようでもあります。

人間は見た目の違いでもって差別しがちですが、命の本質では平等であることを仏様はお骨の姿で示しているようで、
種族の違いや、大きい・小さいで差別されるものではないのです。

人間と動物は違うという人は多いことでしょうが、人間も動物の一種族で仏様の姿は同じでなのです。

人によってペットの命を軽んじることがありますが、仏様の姿はみんな同じで大小の違いはないのです。

あちらの世界でも人と動物は違うという人がおりますが、仏様の姿はみんな同じ姿をしており、仏の世界には差別はないのでしょう。

お坊さんであれば喉仏の形をよく知っておりますので、動物と人は違うという僧侶に、
ゴールデンレトリバーの喉仏と小柄な女性の喉仏を並べて見せて、
「どちらかがあなたが尊ぶ人の喉仏で、どちらかがあなたが嫌う動物の喉仏です」と試してみたいです。
差別ある人がどちらの仏様のお骨を選ぶのか。。。(私って意地悪ですね)

どちらも同じ大きさになりますから、見た目の違いは何もありませんからね。うふふ。

いや、セントバーナードと普通の男性のお骨と比べてもいいかも。。。(私って意地悪ですね)

仏様を慕う者が、どちらの姿の喉仏を選ぶのか見てみたいですね。うふふ。

そんな実験などは、どうでもいいことで、それよりも大事なことは、
私たちにとって、あの子たちは家族の一員であり、大切な存在でることに違いはなく、命は等しく尊いもので、
私にとっても、皆さんにとっても、あの子たちは私たちに幸せを与えてくれた生きていた仏様だったということです。

そして、あの子たちにとっても、優しく接してくれたあなたは生きている仏様なのですよ。

 

12. 命の値

人は多くのことに値をつけて、比較してしまう悪い癖があるものです。
身の回りにある物事は多くのものが数値化されており、容易に比較と判断ができるようになっているものです。
物やサービスなどについては細かな数値があって比較できれば便利でいいのでしょうけれども、
人や命に対しても数値化して比較・判断するようになると問題も出てきましょうね。

人で言えば、身長や体重、偏差値や年収などで数値化して、結婚相手を探したりする気持ちも理解できないわけではありませんが、
そうなってくるとすでに「者選び」ではなく「物選び」となり、「命ある者」ではなく「命ある物」となってしまいます。
一つの判断基準であった数値に慣れてしまい、いつの間にか数値で比較・判断することに囚われ、幸福すらも数値化しようとしてしまいます。

幸せを得る為に、数値化した物事の中から最適な物を選ぶことに問題はありませんが、
命ある者までも数値化してしまうと、数値化する者はいい気持ちでしょうが、数値化された者はどうなのでしょうか?

あの人はいい人だから100点。
あいつは嫌な奴だから0点。

あの人はかっこいいから100点。
あの人はイマイチだから70点。
あの人はタイプでないから30点。

人間という生物は知性ある万物の霊長だから100点。
犬や猫は可愛いから80点。
その他の野生動物は50点。
ネズミやカラスは食べ物を食い荒らすから20点。
ゴキブリなんて気持ち悪いから-100点。
などというように、自らが神にでもなったかのように、自分の都合で命を数値化して値札を貼っているものです。

その値付けの仕方は違うにしても、ペットショップでは犬は10万円、猫は8万円、うさぎは2万円、ハムスターや小鳥は3000円というように値付けしてしまうと、
あたかも命の値があるかのようになり、人によっては価格の数値で命の値を比べてしまうこともあるのです。

嫌な例ですが、「たかがペットのことで…」というような言い方は、人の数値は100点だけど、ペットはたかが10点くらいのことだと考えているから、
そういうような言い方になるのです。
また、違う考え方をすれば、人の命はお金では買えないが、ペットの命はお金で買えるから、「たかがペットのことで…」と言っているのかもしれません。
動物嫌いな人からすれば、ペットは命ある者ではなく、命のある物でしかなく、「たかが数万円のことで…」とお金で比較判断できる対象でしかないのでしょう。

動物好きだって実は同じようなことをしている時があるものです。
ペットショップで購入した血統書つきの高額な犬猫と比較的安価なハムスターや小鳥などで比較判断してしまい、
犬猫が亡くなった悲しみは大きいけど、ハムスターや小鳥が亡くなった悲しみは小さいものだと思っていることがあります。
体の大きさが命の値であるのか、ペットショップでの価格が命の値であるのか、
犬猫との死別の悲しみは理解されても、小動物との死別は同じようには理解されず、命の値が小さいかのように扱われることがあります。
先ほどの動物嫌いな人の言い方であるかのように、「たかが3000円くらいのことで…」と言っているようなものなのです。

愛するペットを喪い悲嘆に暮れていると、「たかがペットのことでそんなに落ち込まなくても…」というように思っているのは、
命の値が低いものだと考えているからであり、たかたが数万円のことでそんなに落ち込まなくてもと思っているから、
「また買えばいいじゃないか」という考えもあり、「また飼えばいいじゃないか」と言われることもあるのです。

生命という計り知れないものを金額として数値化してしまうことから、数値で命の価値を判断してしまうのです。

この数値の弊害は、同じペットを飼っている者同士であっても温度差として表われます。
例えて言うなら、「何才なんだから仕方ないわよ。長生きしていいじゃない。うちの子なんて何才で亡くなって…」というように、
生きた年数や共に暮らした時間の長さで、幸せや悲しみを判断しようとすることもあります。

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才で亡くなった子に比べると、18才で亡くなった子では、悲しみに違いがあるかのように考えられ、
人によっては18年生きたのだから幸せと考える人もいれば、18年も連れ添っているとそれだけ悲しいと考える人もおり、
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年しか生きれなかった子を不幸と哀れに想う人もいれば、5年だから18年連れ添った悲しみに比べれば小さいものだと考える人もおり、
命の重さは時として期間や時間という数値に成り変わってしまい、そこに命があったことを忘れているかのようでもあります。

うちの子よりも長生きな子を知れば羨ましく思い、うちの子よりも短命な子を知ればマシだと思い、
生命という計り知れないものを期間として数値化してしまうことで、期間の長さで幸福度を判断してしまうのです。

このようにして数値化することに違和感を感じず慣れてしまい、自分自身にも点数をつけていることがあるものです。
自分という人間を100点とすると、
「もっと早く病気に気づいてあげられなかった」ことから100点から-20点して、
「自分のエゴから病気で苦しい思いをさせてしまった」ことからさらに-20点して、
「もっと好きな物を食べさせてあげればよかった」「もっと遊んであげればよかった」などと減点してゆき、
あまりの点数の低さに、自分という人間は飼い主として失格とさえ思うようになるのです。

そう思うと、「私が飼い主であったばかりに、この子は幸せだったのだろうか」「他の人と暮らしていたら、もっと幸せだったのではないか」
というように出逢いすらも否定してしまうようになりますし、一緒の暮らしすらも疑問視してしまうものです。

人は数値を付ける悪い癖を持っているものですが、あの子は飼い主さんに対して数値付けなどしておりませんよ。
数値付けしているとしたら、あなたは100点満点であることでしょう。

この世にあなたがいて、出逢いに来てくれたのですよ。
あなたがいるだけで、出逢えただけでも100点満点ですよ。

一緒の暮らしが幸せで、笑顔がいっぱいあったことでしょう。
あなたとの暮らしは、幸せだったから100点満点ですよ。

病気や介護になって、手厚く施してくれたことに感謝しているから、100点満点ですよ。

痛みや苦しみを取り除いてあげたいと必死になってくれたから、100点満点ですよ。

もっと一緒に暮らしたかったと、悲しみで涙してくれているから、100点満点ですよ。

心が張り裂けそうなくらい、この姿を愛しんでくれたから、100点満点ですよ。

後悔や罪悪感から心を痛めるほど、私のことを思ってくれて、100点満点ですよ。

一緒に暮らした思い出に微笑んでくれるあなたがいることは、100点満点ですよ。

ペットたちはみんな、あなたに減点などしておりませんし、いつでも100点満点であなたのことを愛していたはずですよ。

命という計り知れないものに、数値や点数を付けているのは人間くらいなもので、
命の値は計られるものではないから、かけがいのない尊いものなのですよ。

命は量産される物ではなく、ひとつしかないかけがえのない者なのですよ。
あなたはペットたちにとって、大切な人なのですから、減点するのを止めてください。

命は数値化される物ではなく、ただそのままで価値がある者なのですよ。
あの子たちの100点満点を勝手に減点しないでほしいものです。

命には長所や短所があって当たり前。できることもあれば、できないこともあります。
命はそれぞれ異なり、支え合って、補い合っており、完璧な者などおりません。

科学や数値は間違えを正しますが、命や心は間違えを許してくれます。
間違えに気づいたら、素直に謝ればいいのです。

減点することなどせず、より加点するように素敵なあなたになればいいのです。
あの子にとって、あなたはかけがえのない者であり、数値化されるような人ではありません。

大好きな人であり、愛する人であり、そこには気持ちがいっぱいあるだけで数字はありませんよ。

 

13. 命の砂時計@

すべての生き物には寿命というものがあり、誰しも避けては通れないもので、それぞれに与えられた命の時間は異なっております。

一説には、どの生命も心臓の生涯心拍数は一緒で、その心拍の回数によって寿命の長さが変わるという話があります。
例えば、ネズミの平均寿命と1分間の心拍数を掛け合わせた生涯心拍数は、人間の平均寿命と心拍数を掛け合わせた生涯心拍数と同じになるというのです。
私たちが日常使っている言葉でも、ビックリした時に「寿命が縮むかと思った」などという言葉があるように、昔の人は科学的な何かを知り得ていたのかもしれませんね。

それはさておき、愛する子が亡くなった時、「もっと長く生きて欲しかった…」「もう一日でも、もう一時間でも、もう一分でもいいから…」と思うのもですよね。
その子が平均寿命を上回って生きてくれたとしても、そう思いますし、数年で亡くなれば「何でこんな早くに亡くならなければならないのか…」と悲しむものです。

私たちは数字に囚われていることが多いために、あの子たちの生きた年数で命を判断しがちで、
長寿で亡くなれば「長生きして幸せだったね」「大往生ですね」と言って死を楽観的に受け止めようとし、
短命で亡くなれば、「まだ若いのに…」「可哀想に…」と言って死を悲観的に受け止めようとするのです。

私たちは命の時間の長さで幸福の度合いを判断しがちですが、本当に命の長さに応じて幸福の度合いは変わってくるのでしょうか?

すべての生き物には命の砂時計のようなものが備わっており、この世に生を授かった時より砂時計は時を数えはじめ、
それぞれに与えられた砂の量によって、この世で過ごせる時間が決まっているのです。
この世に生を受けた時より死に向かって生きていると言われるように、砂時計の砂は上から下に落ち、生まれた時より命の時間は減っているのです。
その命の砂が尽きた時、この世で過ごせる時間は満了となり死を迎え、あの世に帰ってゆくのです。

あの世から命を授かる時に、命の器と命の砂を選んでやってくるのでしょうから、
どんな砂時計を選ぶのか、どれだけの命の砂を蓄えやってくるのかは、それぞれの判断に委ねられていることでしょう。

この世での滞在時間が時間の早く過ぎる砂時計のくびれの太い器もありましょうし、滞在時間がゆっくりとなるくびれの細い器もあることかと思います。
同じく命の砂の量を納めても、砂が落ちるくびれの大きさにより、この世での滞在時間が異なってきます。
太いくびれでは短い命となり、細いくびれでは長い命となりましょう。
砂時計の器の形に異なっていても、命の砂の量にはかわりません。
この命の砂の量のことを幸せと呼ぶとしたら、命の時間の長さで幸せは異なるのでしょうか。

私はよくお寺でお茶を飲みながら皆さまとお話をしているので、お茶に例えて話す事もあります。
器に注がれたお茶の量によって、私たちは命の量をも計ってしまいがちです。
目の前にあるお茶の量に囚われ、急須の中にある茶葉のことを忘れているのです。
急須の中にある茶葉の量には変わりがないのでが、注がれたお湯の量に変わりがあるだけなのです。
急須の中にある茶葉を幸せと呼ぶとしたら、注いだお湯はこの世での滞在時間です。
少ないお湯なら濃いお茶になります。
多いお湯なら薄いお茶になるだけです。
濃いお茶が好きな人もいれば、薄いお茶が好きな人もいるものです。
あなたの好みもあれば、その時に欲しているお茶の度合いも異なりましょう。

多いから良い。少ないから悪い。ではありませんよね。
多いから幸せ。少ないから不幸せ。でもありませんよね。

多くても、少なくても、幸せには変わりがないのです。
長くても、短くても、幸せには変わりがないのです。

命の砂の一粒一粒に、幸せと感謝があり、時間の長さで判断されるものではなく、
あなたと過ごした一日に幸せがあり、共に過ごせた一日は感謝なのです。

あなたに逢うべく授かってきた命の時間は、幸せそのものなのです。
過ごした時間によって、幸せの度合いを変えてはならないのです。

 

14. 命の砂時計A

私たちは人という器を選びましたので、この世に滞在できる時間が比較的緩やかな器を選んできましたが、
ペットという器は人と異なり、この世での滞在時間が比較的早く過ぎゆく器なのです。

同じ砂の量であっても、時間は同じであっても、砂時計の過ぎゆく砂の量は異なり、
ペットたちは人の命の砂時計よりも、早く過ぎゆく命の砂時計なのです。

人と犬猫で比べると、時間経過が異なり約5倍の速さで時が過ぎると考えられており、
人の1年にあたる時間は、ペットでは5年の時間に相応するのです。

闘病生活や介護生活などにおいて、私たちは異なる見解も持ち合わせているものです。

「病気が見つかってから3ヶ月しか経っていない」と言っても、
私たちにとっては3ヶ月のことであっても、ペットたちにとっては15ヶ月も経っていることになります。

「来月が誕生日だったので、せめて来月まで頑張って欲しかった」と言っても、
私たちにとっては1ヶ月のことであっても、ペットたちにとっては5ヶ月のことになるのです。

一生懸命に頑張った時間は同じでも、頑張っている期間には違いがありましょう。

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ヶ月の闘病は1年以上の闘病にあたりますし、1ヶ月という時間は約半年に値するのですから、それはすごく頑張ったことにあたり、
「〜しか」と呼ばれるような簡単なことではなく、「〜をも」と呼ばれるような頑張りがあったのです。

あなたと共に暮らす日々が幸せだから、あの子たちは一生懸命に頑張ったのです。
私たちが1日と思っている時には、あの子たちには5日の頑張りがあり、
私たちが1日と思っている幸せは、あの子たちには5日の幸せがあり、
私たちが思っている・感じている以上に、あの子たちの時を過ごしているのです。

私たちはあの子たちとの暮らしの幸せから、時の過ぎゆく速さをつい忘れがちになってしまうものです。
私たちとは砂時計の異なる命であることを。

過ぎゆく時間が異なりますので、早くに成長もすれば、早くに老化が訪れるのです。
少しずつ年を取ってきて、「年老いたなぁ」と変化の兆しが現れる頃には、私たちの時間でいうと、残された時間はそう長くはないのです。
病気の進行が進み、「なんか変だなぁ」と変化の兆しが見える頃には、私たちの時間でいうと、あっという間に病気が進行しているように思えるのです。

砂時計も残りわずかな量になってくると、砂の減りゆく速さが早く感じるように、
命の砂時計も残りわずかな量になってくると、あっという間に時が感じられるもので、
砂時計の砂も尽きる時は、あっという間に吸い込まれるように時を終えるものです。

まだ若いから大丈夫と楽観せず、、もうそろそろと悲観せず、
一緒に暮らしている今の一時には、命の一粒があり、日々を大事にしなくてはなりません。

命の砂時計の一粒には、幸せと感謝が詰まっており、命の長さでは計ることのできない幸せがあり、
命の砂の一粒一粒が、かけがえのない今であることを心に留めておかなければなりません。

一緒に過ごせた日々には、かけがえのない日々がいっぱいあるはずです。
共に暮らした命の砂時計の一粒ずつを振り返ってみてください。

命の長さでは計ることのできない幸せがいっぱいありますよ。

 

15. 時の流れ

時問というものには流れがあり、この時間の感覚は人によって異なるものです。

多くの人を集め目を閉じてもらい、1分経ったら目を開けてもらうとすると、目を開けるタイミングはそれぞれ異なるもので、
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分よりも早く目を開ける時間の流れが早い人もいれば、1分よりも遅く目を開ける時間の流れがゆっくりな人もいるものです。
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分ですら時間の流れが異なるのですから、1時間ということですれば、もっと時間差が生まれ、
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日ということであれば、もっと大きな時間差が生じることでしょう。

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日は24時間であっても、時間を早く感じる人もいれば、遅く感じる人もおり、
楽しい時間は早く過ぎるように感じ、悲しい時にはゆっくりと時が過ぎるよう感じるもので、
その時々よっても時の流れは異なるものです。

同じくペットを喪った悲しみから立ち直ってゆくにしても、
人によっては短い期間で立直る人もいれば、人によっては長い期間でもって、ようやく立ち直る人もいるものです。

現代社会では、短時間でできることに比重が置かれ、何でも素早くできることが求められているので、
愛する者を喪った悲しみから立ち直ることすら同様に考えられがちです。

社会病なのかもしれませんが、早いことは何でもいいことと考えられ、
ペットを喪った悲しみから早く立ち直ることが求められているようで、ゆっくりと悲しみに向き合っていられないことがあります。

自分でも早く立ち直って元気になろう!と思うのですが、そんな時に限って、
「早く元気にならないと、あの子が心配するよ」「いつまでも悲しんでいると、あの子がかわいそうだよ」「泣いてばかりじゃ、成仏できないよ」
というようなことを言われ、言われたこともショックであり、周囲からせかされているようでもあり、ゆっくりと悲しんではいられないような状況にあります。

そうして、周囲に心配掛けまいとして、無理に明るく振舞い、無理に仕事を増やし、人前では取り繕い、気を紛らわせてしまいます。
そうすると、悲しみで心にはゆとりがないのに、つい無理をしてしまうので、心の負担は重くなりストレスとなって、
より悲しみから立ち直ることができづらくなってしまい、より時間がかかってしまうのです。

他の出来事とは異なり、愛する者を喪うということは人生での一大事ですので、悲しみが癒えるには時間のかかることを社会に認めてもらいたいものです。

自然なこととして、善きご縁あって、早く悲しみから立ち直るのは良いことですが、無理して早く立ち直ろうとする必要はありません。
社会的な役割として与えられていることはしなければなりませんが、少しずつ、ちょっとずつ、悲しみと向き合い、
思い出しては涙して、時には大泣きして、泣きたい時に涙していいのです。

どれだけの期間でもって立ち直らなければならないという決まりはありませんし、誰かと競争している訳ではありませんので、
ゆっくりと悲しんでいいのです。

長く悲しみなさいとも言いません。長く辛い思いをしなさいとも言いません。苦しむ必要はないのですから。
ただ、必要な分だけ悲しみ、涙が流れるうちは涙して、自らの人生にある時の流れに身を任せてみてください。

それぞれの人に必要な悲しむ時間というものがあり、人によって短くも長くもありましょうけれども、
すべてはその人にとって必要な時間として人生には時間が与えられましょうから、おおいに悲しみましょう。

「時が悲しみを癒してくれる」という言葉がありますが、確かな事実です。
これはごく自然な営みで、心ある者にとって悲しみというものは時間が掛かるものだからです。

悲しみの時期を無理して急いでしまうと見える景色が見えなくなってしまうこともあります。
ゆっくりと歩むからこそ見える景色もあれば、佇むからこそ見えてくることもありましょう。
自分の人生を信じて時の流れに心を任せてみてください。

だからといって、何もしないでずっと寝過ごしていれば、悲しみが癒えるというものではなく、
悲しみを癒す為にも泣きたい時には泣いて、一緒に暮らした日々を思い出しては涙して、
共に過ごした様々なことを振り返り、悲しみの中にある大切なものを抱きしめられるようになると、自然な時を迎えて立ち直っていることでしょう。

人によって、何に気づくのか、何を学ぶのか、何を与えられるのか、それぞれです。
それはその人の人生の流れというものがありましょうから。

急ぐ必要も、焦ることもありません。
しっかりと悲しむことができたら、大いに笑うこともできましょう。
一緒に過ごした日々に涙すれば、一緒に過ごした日々に感謝できましょう。

ワインが芳醇な味わいなるには、ゆっくりと時間をかけて熟成するからです。
悲しみもゆっくりと時間をかけると、豊かな思い出となり、心は強くも優しくもなることでしょう。