仏教という視点だけに囚われていると視野が狭くなりますので、様々な視点から観察してみることにしましょう。
あの世のことについて記してある書はいっぱいありますが、その中でも数多くの著書を記している医師のキューブラー・ロスの著書やチベットの「死者の書」、古代霊(シルバーバーチが有名)との霊言を記した書などがあります。
これらの書の中に、臨死体験時の体験談などが数多くあり、それらはあの世のこの世の境を垣間見たような話が多いので、今回は臨死体験という視点から、あの世の世界観を見てみたいと思います。
臨死体験とは、医学的臨床の視点から死を宣告された者、もしくは亡くなったと思われた者が蘇生した際に語る体験のことをいいます。
この体験の中で国籍や宗教など人種の違いがあるにも関わらず、多くの人が共通した体験をするようです。
肉体から解放された感覚や視覚、トンネルのようなところを通過する体験、光の存在や生前に関係のあった者との出会い、川や門・お花畑のような光景、心地よい音楽、知覚の拡大や共通など、臨死体験した人が類似した経験をしているのです。
この間、臨床的には脳や心臓が停止しており、蘇生するまでの間は死んでいるのであって、この世にいるのではなく、あの世に行っていたのでしょうね。
その間に体験することが全世界において類似している・共通していることは、とても不思議なことです。
まるで、死後の世界や魂の世界を、垣間見てきたようで次なる世界があることを語っているようでもあります。
いくつかの共通点がありますので、見てみましょう。
@亡くなった最初の段階では、肉体から解放され、非常に心地よい感覚を抱くそうです。
今までの体の痛みなどは消え、安らぎと満足感のある快適な感じがあるそうです。
→これは、肉体から解放された魂の感覚を捉えていると考えられますし、あの世では病気や身体的な障害は取り除かれ健全であるのですから、そんな感覚を体験したのでしょうね。
仏教の世界観では、天界の水は病気や障害を癒すとされておりますし、他の宗教においても聖水とは同様の効果があるようですから、そういうことなのでしょうね。
ということは、亡くなると体の不自由が消えてなくなり、あの子たちは苦しみから解放され、今は楽々としているということですね。
それだと、あの子たちの体の心配をする必要はなく、ホッと一安心できます。
Aその後、傍観者のごとく自分の生前の肉体を見ていることに気づくそうです。
その時には、自分の体はフワフワと宙を浮いていて、周囲で起きていることを自ずと理解でき、自分の意識が時間や空間の束縛を超えて広がってゆくそうです。
→これは、魂の世界が私たちの普段暮らしている世界の次元よりも上の次元にあることから、あらゆることが一瞬にして理解できるようなるのですね。
物質的肉体とは異なる体験をするのですから、何かしらの霊的な肉体のようなものがあるからできることで、それを魂とも呼ぶのでしょうね。
宗教は違っても、死は肉体的な体を失い霊的な肉体を得るようなことや、この世の死はあの世の生の始まりであるというようなことを言いますからね。
ということは、あの子たちは亡くなったとしても、肉体的な命が失われただけで、魂という存在になって生きているということなのでしょう。
そして、魂となると次元が異なるために、今までのいろいろなことを理解し得るのですから、皆さんが思っている気持ちを理解してくれるということですよ。
後悔していることも、謝りたい気持ちも、感謝している思いも、愛してやまない気持ちも、みんな分かっておりますから、安心していいのです。
Bそれから、暗いトンネルのようなところを通過して、光に満ちた世界に辿り着き、すでに亡くなった者や大勢の見知らぬ魂たちに迎えられ、会いたかった者たちと再会を果たし、
光に満ちた世界の素晴らしい色彩や景色を見たり、美しい音楽を聞いたりするそうです。
→このトンネルという表現は地域や風習によって異なり、東洋では川を渡る(仏教では三途の川)、西洋では門をくぐる(キリストさんでは天国の門)などといいます。
そして、すでに亡くなった者たちとの再会を果たすそうで、家族や友人、守護霊や指導霊などと会話したり、
中にはお釈迦さんやキリストさん、神様や仏様という光の存在をはっきりと感じたりするように、様々な者たちと出会うとのことです。
ということは、あの子たちはあちらで誰かと再会しており、寂しくしている訳でもありませんし、私たちもいつか時を迎えた時に、あの子たちと再会できるということですね。
「虹の橋」という詩にあるように、再会できますから、心配する必要はなさそうですね。
いつか時を迎える時には、きっと迎えに来てくれていることでしょうから、いい顔をして亡くなっている自分の姿を見るかもしれませんね。
Cその後は、光の存在と出会いテレバシー的なコミュニケーションを図るといいます。
この光の存在は愛情に満ちた明確な個性を持っており、完全に受け容れてくれて愛情を感じるそうです。
ここでの会話を敢えて言葉にすると、疑問形のようなものだそうで、質問されているのに相手には初めから答えがわかっている・見透かされているような対話だそうです。
→「死者の書」やその他の霊言などでは、あの世には3〜7人の光の存在(高級霊)がいるようで、このような指導霊や守護霊の方々と生前における質疑応答をそうで、
仏教においては7人の裁判官がいるという話しと似ておりますね。
また、人にはそれぞれの守護霊や指導霊がいるというのも似ており、人数の違いなどはあったとしても、私たちは霊的な存在に見護れられているということみたいです。
ということは、あの子たちは霊的な存在となって、私たちの行く末を見護ってくれているということにもなりますね。
私たちには見えなくても、あちらからは見えていて、私たちには感じられなくても、私たちの側に居てくれているということでもありましょう。
私の運がいいのは、みんなが側で見護ってくれているからなのでしょう。皆さんも同じはずですよ!
Dこれらの光の存在が現れるのと同時に、自分の生涯を走馬灯のように必ず振り返るそうです。
この際に見る映像はとても鮮明で、実際の感覚や動作まで体験するほどリアルなものだそうで、人生の瞬間映像とも呼べるような追体験をするそうです。
そして、「人生とは何か」ということを考えさせられ、他人に対して行ってきた苦しみがあたかも自分の苦しみであるかのような良心の呵責に苛まれ、
人生とは『愛することを学ぶ場であった』『他人を愛することを学ぶこと』と悟るように分かると言われます。
そのため、臨死体験をした人は思いやりが増し、物質主義から離れ、精神的なものを志向するように変わるそうです。
また、人によってはスピリチュアルやヒーリングの能力が開花することもあるそうです。
→この時に見る映像とは、仏教でいえば閻魔大王の元にある浄玻璃の鏡と似ており、その他の宗教では映画館の3Dスクリーン映像なのかもしれませんね。
そうして生涯を振り返ることで、西洋的宗教には良心の呵責ともいうべき償いを懺悔することになり、東洋的宗教には地獄の業火に焼かれる苦しみを体験するとあるのは、
偶然の一致なのではなくて、人生を振り返ってみたら、いろいろと思うことがあったということなのでしょうね。
ということは、あの子たちは悪を為しておりませんのでなんの呵責に苛まれることもなく、生涯を振り返って幸せだったことをさらに追体験しており、
皆さんと一緒に暮らした日々が幸せであったことを悟るのでしょうね。
そして、愛することを学ぶ場で、愛することをできたことから、素敵な仏さまとなるのでしょうね。
Eこのような体験の後には、ある種の境界とも言えるような境に接近するにつれて、話は進まなくなります。
話が続かないのは当然のことで、全員が死から蘇生して臨死体験を終えて、この世に戻ってきたからです。
死の世界に足を踏み入れた体験者たちは、安らぎと愛に満ちた世界で、この世に戻ることを忘れていたにも関わらず、急に引き戻されたと言います。
その理由を尋ねると、ほとんどの人が分からないと答え、
中には「自分で決めた」「お世話になった者に、まだ来てはいけないと言われた」「愛や祈りのような磁力に引き戻された」という人もいるそうです。
→この境界の先には転生先があるのでしょうね。前回のコラムでいうと最後の鳥居になるのでしょうかね。
虹の橋でいえば、虹の橋を一緒に渡ってゆくということなのでしょうかね。
亡くなった時に見る世界は、各自が属していた文化によって表現が変わりますが、表現は多少異なっても、同じようなことを話しているのは不思議なことですよね。
洋の東西に関わらず、死後も生命は存続し、この世とあの世があること、現世と来世があること、ひいては過去生もあったことになり、あの世のことがちょっと垣間見えましたね。
あの子たちは、私たちをよく愛してくれましたし、私たちの心を癒すことにおいてヒーリングの力を持っていましたから、
あの子たちは臨死体験から目覚めた者たちであったのかもしれませんし、悟りを得ている者なのかもしれませんね!
前回は仏教の視点から、今回は科学の臨床の視点から、あの世のことについて考察してみましたが、なんでそんな快適な世界からこの制約の多いこの世に転生してくるのか?
という疑問が発生しますので、次回は転生のことについて、「ソウルメイト」と題して、スピリチュアルな視点からお話してみたいと思います。
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