6. 臨死体験

仏教という視点だけに囚われていると視野が狭くなりますので、様々な視点から観察してみることにしましょう。

あの世のことについて記してある書はいっぱいありますが、その中でも数多くの著書を記している医師のキューブラー・ロスの著書やチベットの「死者の書」、古代霊(シルバーバーチが有名)との霊言を記した書などがあります。

これらの書の中に、臨死体験時の体験談などが数多くあり、それらはあの世のこの世の境を垣間見たような話が多いので、今回は臨死体験という視点から、あの世の世界観を見てみたいと思います。

臨死体験とは、医学的臨床の視点から死を宣告された者、もしくは亡くなったと思われた者が蘇生した際に語る体験のことをいいます。

この体験の中で国籍や宗教など人種の違いがあるにも関わらず、多くの人が共通した体験をするようです。
肉体から解放された感覚や視覚、トンネルのようなところを通過する体験、光の存在や生前に関係のあった者との出会い、川や門・お花畑のような光景、心地よい音楽、知覚の拡大や共通など、臨死体験した人が類似した経験をしているのです。

この間、臨床的には脳や心臓が停止しており、蘇生するまでの間は死んでいるのであって、この世にいるのではなく、あの世に行っていたのでしょうね。
その間に体験することが全世界において類似している・共通していることは、とても不思議なことです。
まるで、死後の世界や魂の世界を、垣間見てきたようで次なる世界があることを語っているようでもあります。

いくつかの共通点がありますので、見てみましょう。

@亡くなった最初の段階では、肉体から解放され、非常に心地よい感覚を抱くそうです。
 今までの体の痛みなどは消え、安らぎと満足感のある快適な感じがあるそうです。
→これは、肉体から解放された魂の感覚を捉えていると考えられますし、あの世では病気や身体的な障害は取り除かれ健全であるのですから、そんな感覚を体験したのでしょうね。
 仏教の世界観では、天界の水は病気や障害を癒すとされておりますし、他の宗教においても聖水とは同様の効果があるようですから、そういうことなのでしょうね。

ということは、亡くなると体の不自由が消えてなくなり、あの子たちは苦しみから解放され、今は楽々としているということですね。
それだと、あの子たちの体の心配をする必要はなく、ホッと一安心できます。


Aその後、傍観者のごとく自分の生前の肉体を見ていることに気づくそうです。
 その時には、自分の体はフワフワと宙を浮いていて、周囲で起きていることを自ずと理解でき、自分の意識が時間や空間の束縛を超えて広がってゆくそうです。
→これは、魂の世界が私たちの普段暮らしている世界の次元よりも上の次元にあることから、あらゆることが一瞬にして理解できるようなるのですね。
 物質的肉体とは異なる体験をするのですから、何かしらの霊的な肉体のようなものがあるからできることで、それを魂とも呼ぶのでしょうね。
 宗教は違っても、死は肉体的な体を失い霊的な肉体を得るようなことや、この世の死はあの世の生の始まりであるというようなことを言いますからね。

ということは、あの子たちは亡くなったとしても、肉体的な命が失われただけで、魂という存在になって生きているということなのでしょう。
そして、魂となると次元が異なるために、今までのいろいろなことを理解し得るのですから、皆さんが思っている気持ちを理解してくれるということですよ。
後悔していることも、謝りたい気持ちも、感謝している思いも、愛してやまない気持ちも、みんな分かっておりますから、安心していいのです。


Bそれから、暗いトンネルのようなところを通過して、光に満ちた世界に辿り着き、すでに亡くなった者や大勢の見知らぬ魂たちに迎えられ、会いたかった者たちと再会を果たし、
 光に満ちた世界の素晴らしい色彩や景色を見たり、美しい音楽を聞いたりするそうです。
→このトンネルという表現は地域や風習によって異なり、東洋では川を渡る(仏教では三途の川)、西洋では門をくぐる(キリストさんでは天国の門)などといいます。
 そして、すでに亡くなった者たちとの再会を果たすそうで、家族や友人、守護霊や指導霊などと会話したり、
 中にはお釈迦さんやキリストさん、神様や仏様という光の存在をはっきりと感じたりするように、様々な者たちと出会うとのことです。

ということは、あの子たちはあちらで誰かと再会しており、寂しくしている訳でもありませんし、私たちもいつか時を迎えた時に、あの子たちと再会できるということですね。
「虹の橋」という詩にあるように、再会できますから、心配する必要はなさそうですね。
いつか時を迎える時には、きっと迎えに来てくれていることでしょうから、いい顔をして亡くなっている自分の姿を見るかもしれませんね。


Cその後は、光の存在と出会いテレバシー的なコミュニケーションを図るといいます。
 この光の存在は愛情に満ちた明確な個性を持っており、完全に受け容れてくれて愛情を感じるそうです。
 ここでの会話を敢えて言葉にすると、疑問形のようなものだそうで、質問されているのに相手には初めから答えがわかっている・見透かされているような対話だそうです。
→「死者の書」やその他の霊言などでは、あの世には37人の光の存在(高級霊)がいるようで、このような指導霊や守護霊の方々と生前における質疑応答をそうで、
 仏教においては7人の裁判官がいるという話しと似ておりますね。
 また、人にはそれぞれの守護霊や指導霊がいるというのも似ており、人数の違いなどはあったとしても、私たちは霊的な存在に見護れられているということみたいです。

ということは、あの子たちは霊的な存在となって、私たちの行く末を見護ってくれているということにもなりますね。
私たちには見えなくても、あちらからは見えていて、私たちには感じられなくても、私たちの側に居てくれているということでもありましょう。
私の運がいいのは、みんなが側で見護ってくれているからなのでしょう。皆さんも同じはずですよ!


Dこれらの光の存在が現れるのと同時に、自分の生涯を走馬灯のように必ず振り返るそうです。
 この際に見る映像はとても鮮明で、実際の感覚や動作まで体験するほどリアルなものだそうで、人生の瞬間映像とも呼べるような追体験をするそうです。
 そして、「人生とは何か」ということを考えさせられ、他人に対して行ってきた苦しみがあたかも自分の苦しみであるかのような良心の呵責に苛まれ、
 人生とは『愛することを学ぶ場であった』『他人を愛することを学ぶこと』と悟るように分かると言われます。
 そのため、臨死体験をした人は思いやりが増し、物質主義から離れ、精神的なものを志向するように変わるそうです。
 また、人によってはスピリチュアルやヒーリングの能力が開花することもあるそうです。
→この時に見る映像とは、仏教でいえば閻魔大王の元にある浄玻璃の鏡と似ており、その他の宗教では映画館の3Dスクリーン映像なのかもしれませんね。
 そうして生涯を振り返ることで、西洋的宗教には良心の呵責ともいうべき償いを懺悔することになり、東洋的宗教には地獄の業火に焼かれる苦しみを体験するとあるのは、
 偶然の一致なのではなくて、人生を振り返ってみたら、いろいろと思うことがあったということなのでしょうね。

ということは、あの子たちは悪を為しておりませんのでなんの呵責に苛まれることもなく、生涯を振り返って幸せだったことをさらに追体験しており、
皆さんと一緒に暮らした日々が幸せであったことを悟るのでしょうね。
そして、愛することを学ぶ場で、愛することをできたことから、素敵な仏さまとなるのでしょうね。


Eこのような体験の後には、ある種の境界とも言えるような境に接近するにつれて、話は進まなくなります。
 話が続かないのは当然のことで、全員が死から蘇生して臨死体験を終えて、この世に戻ってきたからです。
 死の世界に足を踏み入れた体験者たちは、安らぎと愛に満ちた世界で、この世に戻ることを忘れていたにも関わらず、急に引き戻されたと言います。
 その理由を尋ねると、ほとんどの人が分からないと答え、
 中には「自分で決めた」「お世話になった者に、まだ来てはいけないと言われた」「愛や祈りのような磁力に引き戻された」という人もいるそうです。
→この境界の先には転生先があるのでしょうね。前回のコラムでいうと最後の鳥居になるのでしょうかね。
 虹の橋でいえば、虹の橋を一緒に渡ってゆくということなのでしょうかね。


亡くなった時に見る世界は、各自が属していた文化によって表現が変わりますが、表現は多少異なっても、同じようなことを話しているのは不思議なことですよね。
洋の東西に関わらず、死後も生命は存続し、この世とあの世があること、現世と来世があること、ひいては過去生もあったことになり、あの世のことがちょっと垣間見えましたね。

あの子たちは、私たちをよく愛してくれましたし、私たちの心を癒すことにおいてヒーリングの力を持っていましたから、
あの子たちは臨死体験から目覚めた者たちであったのかもしれませんし、悟りを得ている者なのかもしれませんね!

前回は仏教の視点から、今回は科学の臨床の視点から、あの世のことについて考察してみましたが、なんでそんな快適な世界からこの制約の多いこの世に転生してくるのか?
という疑問が発生しますので、次回は転生のことについて、「ソウルメイト」と題して、スピリチュアルな視点からお話してみたいと思います。

 

7. ソウルメイト

あちらの世では何不自由もなく、束縛もされないのに、どうして悲しみや苦しみがある、この世に生を授かるのでしょうかね。
臨死体験や過去生への睡眠退行による精神療法などからも、生前のことや死後のことが少しずつ明らかになってきているようですね。

この世界を構成している要素として、物質的な世界と精神的な世界があり、この二つの世界がお互いに影響し合って、世界は成り立っているのでしょうね。

私たちが肉体を伴なっているこの世界では、あの世では体験できない経験をするために生まれてきて、
この世での生を終えて肉体という制約から解放された精神は、またあの世である精神世界に戻ってゆくのです。

その時の記憶が肉体という制約下では、心の働きも制約を受けているために、通常では思い出す事ができないようになっているのです。
それが、非日常的な意識状態においては、潜在意識に眠っていた記憶が呼び起こされ、生前のことや死後のことを思い出したり、垣間見たりすることがあるのです。

この意志をもった精神のことを「霊」や「魂」と言い、普通に言うと「心」となりましょう。
この精神は肉体という衣を着替えながら存在し続けており、
生まれ変わり、死に変わり、また生まれ変わりして、この世とあの世を行き来しているのです。

この魂は時に光のように喩えられますが、光と同じように魂には波動や波長があり、その波長の強さによって輝きが異なってくるのです。
優しさや愛を多く蓄えた霊格の高い魂は強く眩しく輝きますし、まだ未熟な霊格の低い魂の輝きはさほどでもありません。
臨死体験や宗教的な神秘体験にあるような眩しい光の存在とは、霊性の高い魂のことを表しているのであり、愛や慈悲を備えた魂の光なのでしょうね。
人はそれを神や仏という尊い存在と感じることもあれば、人生を時や縁で導いてくれる守護霊(指導霊)と感じることもあり、
宗教や信条の如何に関わらず、魂の存在を感じ取っているものです。

もちろん、私たちの愛する子たちも光の存在となっており、愛や慈悲を備えた霊格の高い守護者として、私たちを見護ってくれております。

あちらの世では何不自由もないので、魂を成長させたり、霊格を高めようとするとなると、修行する試練の場が必要となり、
この世で肉体的な制約を課して、優しさや愛を学ぶために、この地上に魂はやってくるのです。
「この世は修行道場である」「この世は学びの場である」などと言われるのは、そういうことからなのでしょうね。

そうなると、この世での喜びや悲しみ、幸せや不幸というものは、魂の成長に関わっており、
すべての出来事には意味があり、必要があることになりますね。

霊格を上げるために、魂の成長を促すために、敢えて制約や不遇な環境下に身を置くことで、学びを得ようとしているのですね。
まるで、悟りを得ようと苦行する僧侶のようでもあり、武術の真髄を得ようと武者修行する者のようでもありますね。

魂の成長を図るべく、あの世で指導役の魂(守護者)や一緒に魂を成長し合う仲間と、お互いの役目や使命をプログラムして、この世にやってくるのです。
この時にプログラムしたことや課題の回答を知っていては意味がありませんので、この世にやってくる時には、あの世の記憶を潜在意識の奥底に眠らせているのでしょう。

この人生という問題集には、予め伏せてある出来事や出会いがあり、人生で与えられた境遇は偶然ではなく、
あの世において選んできたことであり、決めてきた試練なのであって、多くの境遇の中から人生を学び、魂を磨き、輝きを高め、霊格を上げようとしているのです。

この魂の成長には個人差があり、この世で早く学び終える者もいれば、時間をかけてゆっくりと学ぶ者もおり、
少ない課題を果たす者もいれば、多くの課題を果たさなければならない者もあり、魂にはそれぞれ与えられている使命や時間が決まっているのです。
この世で過ごすことのできる時間のことを寿命というのです。または天寿とも言いましょう。
それぞれにとって必要な時間だけ授かってこの世にやってきているので、時間が来たら魂の世界に戻らなければなりません。

すべては自分に与えた課題で、学びが得られるように時を定め問題を伏せてあり、その出来事が生じた時に、
良心的な愛ある行いができるのか、良心的でない優しさに欠ける行いになってしまうのか、
予め人生に課題を持ってやってきており、その行動の如何によって、魂が磨かれるのか、魂を汚すのか、が変わってきます。

愛のある行いが出来た時には、不思議と助けてくれる人や支えてくれる者が現われ、充実した人生を送れるようになっておりますし、
愛のない行いの時には、争いや疑いに満ちた方向へ人生は進み、苦難が付きまとうことになっており、
人生には進むべく方向や進路を、起きた出来事の受け止め方や解決の仕方でもって導いてくれる「因果」というナビゲーションが備わっているのです。

そして、人生の課題を果たした者は次なるステップへと進み、未解決の者は依然として問題が残っているので、
シチュエーションを変えて再度挑戦することもあれば、来世に持ち越されることもありましょう。

この人生の課題を果たそうにも一人ではできず、支えてくれる者もあれば、助けてくれる者もおり、
この世に集う仲間があってできることで、自らの周囲にいるすべての関わりある者たちは、みんな自分の魂を磨くために出会うべくして出会う者たちなのです。

その出逢うべく仲間たちの中でも、特別な存在という者がおります。
それがソウルメイトと呼ばれる存在で、心の友とも魂の伴侶とも呼ばれる、愛情の絆で結ばれた関係の深い間柄にある者です。

いつの時代も共にあり、生まれ変わり、死に変わりする輪廻を共に過ごす者で、
命の姿がある時には共に暮らすほどの関係となり、命の姿のない時には心と共に人生を見護る守護者となって、
お互いに支え合い、お互いに助け合うことによって、お互いに愛や優しさを学び合い、お互いの魂を磨き合うのです。

今回の世では、あなたは人となり、あの子はペットとなり、
種族を超えてもお互いに愛情を育むことができるのか?
言葉が違っても心を分かち合うことができるのか?
お互いを思い合い、優しさを学び合うべく、お互いの課題を決めてこの世にやってきたのです。

生前からの縁あって、強い絆で結ばれている間柄だから、
出逢うべくして出会うのであり、共に暮らすべくして一緒にいたのです。
こうして、お互いに優しさという愛を学び合ってきたはずです。

この世で果たすべく役割を担っている者たちは、愛する者を支えるために、愛する者を助けるために、
相応しい命の姿を命の時間を授かってきていることもありましょう。

あなたの人生の大事な時に側にいることで、あなたを支えてくれた者のおりましょう。
あなたの人生がより良くなるように、人との繋がりを作ってくれた者もおりましょう。
あなたの優しさを引き出し、あなたの相手として相応しい姿をした者もおりましょう。

あなたにとって、あの子はソウルメイトであり、あの子にとって、あなたはソウルメイトであり、
お互いに欠けてはならない、かけがえのない者同士、それがソウルメイトなのです。

ソウルメイト同士は、心は愛情の絆で結ばれ、お互いの魂は惹かれ合いますので、
いつの時代も共にあり、お互いの役割や立場を入れ替えて、生まれ変わり、死に変わり、また生まれ変わりしても、
いつも一緒にいる特別な魂の伴侶なのです。

どちらかが先に命の時間が訪れて先に逝けば、光の存在となって心と共にあり、人生を照らしてくれましょうし、
あなたが幸せになれるようにと側で見護ってくれる守護者となり、縁や導きを与えてもくれましょう。

この先もあなたの魂と共に、あなたの心と共に、人生を歩んでいるのです。

あなたたちがこの世に生まれてくる時に、生前のことを記憶の奥底にしまいこんでいたとしても、
心の絆で強く結ばれているので、出逢った時に『ピン!』と心が反応したはずです。

出逢った時のことを思い出してみれば、不思議なことが重なり合い、
偶然から必然へと変わり、出逢うべくして出会っていたはずです。
お互いに心が惹かれ合ったのですよ。
お互いの魂が共鳴して気付いたのですよ。

そうして出逢ったように、命の姿があれば、また生まれ変わってくることもできましょう。

あなたと一緒に暮らす命の姿がなくても、魂はあなたの心に寄り添い、あなたの側におりましょう。

あなたのソウルメイトは、いつも心と共におりますよ。

 

8. 出逢いと幸せ

唐突な質問ですが、ペットと一緒に暮らすことで、あなたは何を貰いましたか?

いろいろな答えがありましょうけれども、まとめてみると幸せを貰ったことかと思います。

一緒に過ごしたいろいろな日々は笑うことが多く、笑顔の時を増やしてくれたとのことから笑顔を貰った人もおりましょう。
ペットを通じた友人や知人が増えて人間関係が豊かになり、友達を貰ったという人もおりましょう。
一緒に遊び、共にお出掛けをして楽しんだことから、喜びを貰ったという人もおりましょう。
日常生活の疲れを忘れさせてくれることから、癒しを貰ったという人もおりましょう。
人生を支えられ助けられたことから、命を貰ったという人だっているかと思います。

ペットたちは飼い主さんのことを純粋に思い、素直に愛しくれますから、あの子たちから無償の愛を貰ったことかと思います。

楽しい時間は早く過ぎるもので、振り返ってみると一緒に過ごした人生は短く感じるものです。
人生が短く感じるほど、一緒の時間が足りないと思えるほど、あの子たちから幸せを貰っていたのです。

もし、ペットと一緒に暮らしていなかったら、このような幸せは人生になかったのです。もちろん、他の幸せがあったかもしれませんけどね。
そうだとしても、そんな幸せは想像できませんから、もし出逢わなかったら…と考えると、寂しい人生を過ごしていたかもしれません。

私たちはあの子たちからいっぱいの幸せを貰い、かけがえのない家族となりパートナーとなっていたので、
愛するペットを喪うことは、大きな悲しみとなって私たちの心にぽっかりと穴を開けることでしょう。

その穴の大きさというものは大きいもので、それだけの心に占める割合があり、とても大切な存在となっていたことを喪ってみて知ることでしょう。
切ないことではありますが、いつもの日常がどれだけ幸せであったのか、一緒に過ごした日々がいかに幸せであったことか、涙しながら気付いたことでしょう。

ペットを喪うことで、そんな幸せな日々も失われたかのように思いますが、一緒に過ごした日々は失われた訳ではありません。
悲しみで覆い隠されているだけで、心に穴が空いたのではなく、覆い隠されて穴が空いてしまったかのように感じているのです。

お互いに幸せになるべくして出逢いがあったのです。

あなたの幸せは、あの子でしか培えなかったかけがえのない宝物です。
あの子の幸せは、あなたとでしか育めなかったかけがえのない宝物です。

お互いの心に共通する宝物があることを忘れてはいけません。
別れの悲しみは大きなものですが、出逢ってからの幸せに比べたら、比較するどころの比ではありません。

別れで終わりになるのではありません。
出逢えたことから始まったのです。
想いに終わりはありません。愛に終わりはないのです。

亡くなった後だって、心にある宝物を見て思い出せば、色褪せない幸せがそこにあります。
これから先も愛せるのですから、出逢えたことに感謝しなければなりませんね。

私たち人間は欲張りですから、欲に際限がないので、どんなに求めても止むことがなく、
お別れすることに満足することなどないのかと思います。

ですが、ペットたちはあなたに出逢えたことに満足しているのですよ。
別れに不満があるのではなく、命の限りに不満があるのではなく、
あなたに出逢い、あなたと一緒に暮らせたこと、あなたから思われ愛されたことに満足しているのです。

あなたに会いたくて、あなたと触れ合いたくて、命の時間と命の姿を借りてやってきたのですから。

出逢えたことに満足しており、いつも目を輝かせていたことでしょう。

同じように、あの子たちの瞳にも、あなたの目は輝いていたことを忘れないでください。

出逢えたことが、そもそもの幸せなのですよ。
別れから考えるのではなく、出逢いから考え、一緒に過ごせた日々に感謝しましょう。

心に幸せがあることに感謝しましょうね。

 

9. 別れと苦しみ

仏教では、人生には避けることのできない苦しみがあることを積極的に受け止め、苦があることを受け容れていかに生きてゆくのかを説いております。

この世で起こる苦しみのことを四苦八苦と言いますが、これは仏教語が諺になって広まったものです。  
四苦八苦の四苦とは、「生」・「老」・「病」・「死」という根源的のことで、
生ある者は時と共に老いてゆき、老いると時に病気にもなり、病気が時と共に進めば死に至るという、誰もが避けることのできないことです。
さらに、「愛別離苦」・「怨憎会苦」・「求不得苦」・「五蘊成苦」という四つの苦があることから、四苦八苦という造語になったのです。

「愛別離苦(あいべつりく)」とは、愛する者と別れる苦しみ
「怨憎会苦(おんぞうえく)」とは、嫌いな者と出会う苦しみ
「求不得苦(ぐふとっく)」とは、求めても得られない苦しみ
「五蘊成苦(ごうんじょうく)」とは、これらが自分のこととして起こる苦しみ

この世には避けることのできない八つの苦しみがあるのですから、愛する者を喪うということはこれらに関わってくることですので、
愛するペットを喪うことがいかに悲しく辛く苦しいものであるかが伺えます。

ペットロスの苦しみは死別から始まっているのではありません。
ペットがこの世に生を受ければ、時が進むにつれて死に近づいており、生きるということは死に向かって歩んでもいるのです。
そして、一緒に過ごせる月日を重ねペットが年老いてくれば、できることができなくなり、見ていると切なく苦しくもなります。
さらに、病気にもなりますので、一生懸命に生きる姿を見ていると、苦しみを代ってあげたくもなり切なく苦しくなります。
やがて、時を迎えて死別となれば、これほどまでに涙がでるものか、こんなに悲しく、辛くもあり、こんなに苦しいことがないと思えるほど、切なく苦しい思いをするものです。

こうして、愛する者と別れなければならないという苦しみを経験することになりますし、このままでいてほしいと望んでも求めても叶わない苦しみを経験します。
なにより、この出来事が他人のことではなく、自分の身に起こっている現実であるという、どうにもならない苦しみを引き受けざるを得ない苦しみがあるのです。

まだ年齢も若く元気な頃には思いもしないことで、年老いて病気になってもなるべく考えることを避けてきたことですから、
一緒に過ごせる日々がいかに大切で貴重なものであったのかを、愛するペットを喪った後になって気付くものでしょう。
日々を等閑にしている訳ではないにしても、今まで避けてきたことを一度に多くの苦を引受けることになってしまうので、
後悔することもあれば、謝りたいことなどもあり、愛する者との別れを受け止めるには、長い月日が必要なことなのです。

人の場合にはこの月日のかかることが分かってくれても、ペットの場合となると自分自身も戸惑うほとですから、世間からはなかなか理解されないことがあるものです。
そのために、嫌な思いを経験することにもなり、嫌な者(嫌な事柄)にも出会うことになり、四苦八苦のすべてを経験しましょうから、辛く苦しい思いをするはずです。

そんなに苦しい思いをするのは愛しているからであって、愛していなければ経験せずに済むことなのかもしれません。

では、この苦しみと引き換えに、愛さないことを選べましょうか?
では、こんな苦しい思いをするのなら、いっそう出逢わなければよかったのでしょうか?

そうではないと私は思います。

愛さずにはいられないほどでしょうから、愛さないことはできないかと思います。
愛さないことができないのであれば、この苦しみも、この悲しみも、この辛さも、愛の中に含まれていたものですから、徐々に受け止めてほしいものです。

いっそう出逢わなければと考えると、一緒の暮らしで分かち合ってきた幸せも無いことになります。
その幸せを手放そうとはしないのですから、この裏返しの苦しみも徐々に受け止めてほしいものです。

別れはあなたを苦しめるためにある訳ではありません。
心から誰かを愛することができることは、この世で経験しうるとても素晴らしいことです。

そんな素敵な愛を得た者だから、こんなにも苦しい思いを経験するのも仕方の無いことなのです。
誰しもが避けることのできないこの世の道理であり、心から愛することのできた人のみが苦しみを引受けることになるのです。

別れは苦しみではありません。
別れは命を授かってきた時からの定めです。

それまでの時は幸せだったのですから、これを機に苦しみに変えず、幸せの中に含まれているものだと感じて下さい。
甘さの中にほろ苦さがあることで味わいとなるように、愛する幸せの中には、愛するが故の苦しみもあるものです。

本当の幸せの中には苦があるもので、誠の愛の証が苦しみでもあるのですから、
それだけ愛することができた誇らしい苦しみですよ。

苦しい思いをするほど愛された、今も、これからもずっと愛されるのですから、
そんな愛されたペットたちは幸せ者です。

それほど愛することができたあなたも幸せ者なのですよ。

 

10. 命の器

私たちは皆、体という器を大地から授かり、天からは器を生かす時間を注がれて、この世にやってくるのです。
身体という器に、命という時間を宿し、この世に生を受けるのです。

その形はいろいろあり、それぞれの形をしております。
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本足の器もあれば、4本足の器もあるし、シッポのある器に、頭でっかちの器、翼のある器など、いろいろです。
色だって様々で、黄色もあれば、白もあり、黒もあり、鮮やかな色から目立たない色など、いろいろです。
大きさだって、大きい者もあれば、小さい者もおり、細長い者だって、ぼっちゃりしている者だっております。

この世には、いろいろな器があっていいのです。いろいろあって当たり前なのです。
必要のない器なんてありません。必要がなければ最初から器はありません。
いろんな役割をする器があり、それぞれにしか果たせないことがあるから、いろいろな器があるのです。

この世にある器は天から時間を注がれており、それぞれの器に、それぞれの時間が注がれ、
この世に滞在できる命の姿と命の時間を得てやってくるのです。

この器に時間をいっぱい注がれてやってくる者もいれば、ちょっとしか注がれずにやってくる者もおります。
それぞれの者に幸せになるべく必要な時間を注がれ、その注がれた時間を費やしながらこの世に滞在しているのです。
注がれる時間が同じでも、器によっては異なって見えることがあり、大きい器では少なく見え、小さな器では多く見えるものです。

器に注がれる時間は決まっていて、途中から増える訳でもありませんし、減る訳でもありません。
どのように消費するのかは、それぞれに任されていることでもあり、自然と減ってゆくものでもあります。
その上で、必要な分だけ注いでもらっているので、多い少ないと比較することがないのです。

器が気に入らなければ選ばなければいいのです。
時間が気に入らなければ選ばなければいいのです。
次の機会まで待てばいいし、また選び直せばいいのです。

この世で2つの器が出逢うと不思議なことに、
お互いの出逢いに祝福し、乾杯をするのです。
お互いの器の愛らしさ、素敵さに惹かれて、共にあります。

お互いの器に注がれている命の水を頂き合うのです。
あなたはあの子に与え。あの子はあなたに与え。
あの子はあなたに与え。あなたはあの子に与え。

共に分けあい、共に味わい、幸せなひと時を過ごすのです。
お互いにどれほどの量があるのか知らず、お互いに分けあうのです。
あなたに分けたい分を。
あなたから貰った分を。

そのようにして、お互いに幸せになるために注がれた命の水(時間)を分けあって幸せな時を過ごすのですが、
この世にやってきたときに注がれた量にはお互いに違いがあり、同じ時間を共有しているにも関わらず、
与えられている量によって違いが生じ、やがてどちらかの器に注がれていた命の水が尽きてしまうのです。

天から注がれた時間は予定通りに時を告げ、器に注がれていた命の水が尽き、器は役割を終えるのです。
借りてきた器は大地に還さなければなりません。
大地に還すことで大地は豊かになり、次なる器を貸し出すことができるのです。
注がれた命の水は、常に天に還していておりますので天は潤い、次なる器に命の水を注げるのです。

器も返し、お水も還し、何も見えなくなってしまいますが、消えたわけではありません。
器はもともと大地から借りてきたもので、出逢う前から大地にあり、今も大地に帰っただけで、消えた訳ではありません。
命の水ももともと天に満たされていたもので、出逢う前から天にあり、今も天に充ちているだけで、消えたわけではありません。

そうであったとしても、それは全体になっているだけで、
あの子の器を、あの子の中にあった命の水を希求しているので、消えたように思えてしまいます。

ですが、消えたように思えても、何かが残っているです。
共に乾杯した幸せな時間は心に残っており、共に過ごした幸せな日々は確かにあり、
出逢う前と別れた後では、天地にあるものは同じであっても、
お互いに交わし合ったことで消えずに、残っているものがあるのです。

あの子たちにあなたが注いだ命の水は、時間としては天に還したとしても、残っているものがあるのです。
それは、絆です。
あなたとの愛情の絆が残っております。

あなたにあの子から注がれた命の水は、時間としては天に還しつつあっても、残っているものがあります。
それは、命です。
あなたの中にはあの子の命が注がれているはずです。

また逢いたい!もっと人生を共にしたい!と願う時、あなたが注いだ後に残った絆により、その願いが叶うのです。
ただ、どのような器を選び、どれだけの命の時間を授かってきたのかは分かりませんが、
あなたと結ばれている絆を手繰って、新たな器でもって出逢い、再会を果たすのです。

このようにお話しますと再会を果たしたと思われますが、
今回の出逢いだって同じで、実は再会であったはずですよ。

お互いに交わし合った素敵な絆が、ずっと前の時代からも続いていて、
また逢おうね!の約束と、また会いたい!の願いが、一つになって、
大地から器を借りて、天から命の時間を注いでもらい、あなたとの前から続いている絆を手繰って、
この世の、この時代に、あなたたちは再会を果たしていたのですよ。

あなたとあの子の出逢いは再会でもあるのです。
再会なのか、再々会なのか、何回目の再会なのかは分かりませんが、出逢いは出逢いです。

あなたの中にはあの子の命が注がれており、あなたとあの子は愛情の絆で結ばれており、
またいつか再会という出逢いをする者同士なのですよ。

いつか再会した時には、出逢いを祝して、また乾杯するのでしょうね。