1. ペットの語源

人類と動物が一緒に暮らし始めて1万年以上になり、動物たちの一部は野生動物から人と関わりを持つ使役動物となり、
犬は番犬に、猫はネズミ捕りにという使役動物としての役割から解放され、今では人間と共に暮らすペットと呼ばれるようになってきました。

今ではペットたちは、家族として迎えられ、1匹からひとりとなり、種族を超えた愛情の絆で結ばれるようになってきております。
種族が違っても、言葉が違っても、一つ屋根の下で共に暮らす、人生を共に生きるパートナーでもあるのです。

1970
年代頃から学会においてヒューマン・アニマル・ボンド(人間と動物の絆)が提唱されてから、今日に至ってはペットの地位は向上して、「ペット」という呼び名のままでは、
見下しているかのような思いもあり、「コンパニオン・アニマル(伴侶動物)」という呼び方に変わってきつつあります。
使役動物からペットと呼ばれるようになり、ペットからコンパニオンアニマルとも呼ばれるようになってきた「ペット」という言葉は、どんな意味があるのでしょうか。

ペットの語源は英語で、人間に飼われている犬や猫などの愛玩動物のことをペットと言い、この言葉には2つの由来があります。

一つ目には、「小さな」という語源が短くなり、人と一緒に暮らす動物のことを野生動物と区別して呼ばれるようになったそうです。
この語源で言いますと、「petty」となりますので、比較して小さいとか、些細な・取るに足りないということになり、
一つの命として見るのではなく見下しているようですから、ペットという呼び名に抵抗があるのかもしれませんね。

二つ目には、「お気に入り・可愛がる」という言葉からの由来で、動詞となれば「petting(撫でる)」という意味があり、その他には大事なもの、特別な存在、抱きしめるとあります。
ペットという呼び名は、私たちがペットを撫でたり、抱きしめたり、可愛がったりしていることそのもので、
語源から言えば、特別で大事な存在ということになり、ペットという呼び名は良い意味からのものとなります。

ペットという呼び名はとても不思議だと思います。

「お気に入り」ということでは、大好きということですからね。気に入っているから携帯の待ち受け画面などにするのですからね。
「可愛がる」ということでは、可愛いからであって、その仕草や愛らしさから自然と可愛がり、愛しているのですからね。
そうして、大事なものとなり、特別な存在となってゆくのですから、ペットという呼び名はとても相応しいものだったのです。

特に「撫でる」という意味でいえば、人は心が魅かれ合うとお互いに近づきたくなり、さらに好きになると触れ合いたくなるものですから、
自然とペットのことを撫でているかと思います。
この撫でるという行為がとても大事な事に繋がってくるのですが、触れ合ったり、抱きしめたりしていることで、肌を通じて心を交わし仲良くなれるのです。

人の間柄でも同じですよね。
好きになれば近づきたくなるし、触れたくなるし、抱きしめたくなります。
お互いに肌に触れ合うことで心を許し、特別な存在になるように、ペットとも同じことを通じて、種族や言語の壁を乗り越えて仲良くなっているのです。

ペットとは言葉が違うから、相手が何を思っているのかをお互いに察して思いやり、種族を超えて触れ合うことでお互いに心を許して愛し合い、
仲良くなることを自然としているので、大切な存在になれるのであり、特別な存在になるのです。

人間が相手でも同じ事をすれば仲良くなれるのですが、言葉が同じために、相手の心を察することを等閑にしてしまい、
お互いに思いやることを忘れてしまい、結果として種族も同じで言葉も同じなのに仲良くなれないで争ってばかりしております。

その点、ペットは不思議ですね。

種族が違っても家族になれてしまうのですよ。
同じ人間同士で種族が同じだからといって、そう簡単には家族にはなれませんし、家族であっても愛し合っているかどうかは定かではありませんよ。
言葉が違っても心を分かち合えてしまうのですよ。
同じ言葉を使っていても、主張や争いのために使ってしまい、本来の心を交わし合うための利用をせず、心を分かち合えないのですからね。

ペットという呼び名の云々で言えば、
petty]の意味合いからでは、人よりも小さなもので取るに足りないと見下しておりますが、
petting」の意味合いからすると、見習わなければならないほどですから見上げることになりましょう。

お互いに触れ合うことで温もりを感じ、肌を通じて心を交わし許し合い、大切で特別な存在へとなってゆく、
ペットという呼び名は、私たちの心を幸せにしてくれる素敵なものなのですよ。

どのように思うかは人それぞれですが、コンパニオンアニマルという言い方はいっけん聞こえはいいのですが、
良く考えるとアニマル(動物)と言い切ってしまっていますからね。
animal」では、人以外の動物と区別して訳され、ちょっと寂しい気がするのは私だけでしょうか。。。

 

2. 虹の橋

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『虹の橋』
天国のほんの少し手前に「虹の橋」と呼ばれるところがあります。
この地上にいる誰かと愛し合っていた動物たちは、死ぬとそこへ行くのです。
そこには草地や丘があり、彼らはみんなで走り回って遊ぶのです。
食べ物も水もたっぷりあって、お日様は降り注ぎ、みんな暖かくて幸せなのです。

病気だった子も年老いた子も、みんな元気を取り戻し、
傷ついたり不自由な体になっていた子も、元の体を取り戻すのです。
・・・まるで過ぎた日の夢のように。

みんな幸せで満ち足りているけれど、ひとつだけ不満があるのです。
それは、自分にとって特別な誰かさん、残してきてしまった誰かさんがここにいない寂しさのこと…

動物たちは、みんな一緒に走り回って遊んでいます。
でも、ある日・・・
その中の1匹が突然立ち止まり、遠くを見つめます。
その瞳はきらきらと輝き、からだは喜びに震えはじめます。

突然その子はみんなから離れ、緑の草の上を走り始めます。
速く、それは速く、飛ぶように。
あなたを見つけたのです。
あなたとあなたの友は、再会の喜びに固く抱き合います。
そして、もう2度と離れたりはしないのです。

幸福のキスがあなたの顔に降り注ぎ、あなたの両手は愛する友を優しく愛撫します。
そしてあなたは、信頼にあふれる友の瞳をもう一度のぞき込むのです。
あなたの人生から長い間失われていたけれど、その心からは一日も消えたことのなかったその瞳を。

それからあなたたちは、一緒に「虹の橋」を渡ってゆくのです・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この詩は海外のもので作者は不明です。
誰が創ったものか分かりませんが、多くの人の心を惹きつけるもので、ペットを喪ったことのある人であれば涙することでしょう。

多くの人が心を惹きつけるのには訳があります。
望んでいるからだけではなく、これが真実だからでしょう。

多少の表現の差はありましょうけど、魂の世界をよく知っている者が作詩したもので、
私たちもその世界から現世に来ているので、心の奥深い記憶(魂)が揺さぶられるのです。

あちらの世界では食べ物も水も豊富で、何不自由なく暮らしていると思います。
あの世の水はすべてを癒すと言われるように、病気や不自由な体を治す清らかな聖水でしょうから、
みんな元気にしていると思います。

ただ元気に暮らしているのではなく、ちゃんと世話をしてくる人だっているのでしょうね。
この世で、動物たちと深く関わった人たちが、ボランティアのように働いてくれているのでしょうね。

多くの子たちが皆さんと再会できる日まで、お世話をしている方たちがいることでしょうから、
再会の喜びだけではなく、それまでのいろんな話をすることでしょうから、虹の橋を渡る前にはちゃんと感謝してお礼を言っていることでしょう。
一緒に虹の橋を渡り、共に転生するべく約束をして、一緒に暮らせる命の姿でお互いに再会するのでしょう。

皆さんは虹の橋は先の未来と考えておりましょうけれども、過去にもそこを渡ってきたはずです。
あの子と一緒にね。
そして、また出逢うべく命の姿を借りてきて、この世にやってきているから、出逢ったのであって、
この世で出逢えたのは、過去からの約束なのですよ。
あの子は約束を守ってくれたのですからね。あの子はあなたを見つけてくれたのです。

この先でも待っていてくれましょうし、それまでは虹の橋のたもとで元気にしておりますよ。
そのためには、私たちも元気に暮らし、再会の日まで与えられている命の日々を過ごさなければなりません。

この名もない詩人の詩は、作者が不明なのではなく、皆さんが作者でもあり、一人一人の心の景色なのでしょう。
誰かが言ったことなのではなく、皆さんの古い記憶が呼び起こされて心が反応しているのでしょうね。

この詩は、ペットと幸せに暮らした人たちみんなの詩なのです。

雨の後の晴れた空に虹が架かるように、皆さんの涙の後に心にも虹が架かるのでしょうね。
一緒に暮らした日々のいろいろなことが七色の虹になることでしょう。


ネット上には続編なるものがあって、「雨降り地区」と呼ばれるものもあるそうです。
虹の橋をの原文を読んだ人がその後に記したものでしょうから、あまり雨降り地区の話を真に受けて悲しくならないでくださいね。

皆さんの涙があちらで降り注ぎ、あの子たちが濡れて寒い思いをしているなんて考えられません。
心に響きませんし、魂が反応しません。
悲しんでいると成仏できないというようなことを話しにしたようなもので、
私たちの気持ちはともかくとして、あちらの世界は心地よいところであるはずですからね!

そんな辛く悲しい地区は、天にはありませんよ。

 

3. 人と犬とのまじわり

どうやら、人間と動物の共存生活の最初は、犬の祖先のようですね。

原始時代の人間は、いつ大型の肉食獣に襲われるか分からない不安な状況の中で生活しておりました。
4足歩行の獣のように早くは走れませんし、臭覚や聴覚においても他の動物に劣りますので、
大型の肉食獣に襲われないかと警戒して安心して眠ることができなかったのです。
その反面、火や道具を使くことにより、動きの遅い大型草食獣を捕食することで生活は潤うようになってきました。

イヌ属の祖先は鋭い牙と爪を持ち、俊敏な足を備え、優れた臭覚と聴覚を使い、集団で狩りをすることを営んでおりました。
それでも獲物を捕えることができないときには、草や樹の実を食べて飢えを凌いでいたことから、犬の祖先は雑食性になったとも言われております。

この両者の生存にあたっての問題点は、
人間においては、肉食獣からの警戒による睡眠不足があり、
犬においては、食料の安定供給があったのです。

人間の勢力が増してきて大型の草食獣が減少し、中型の草食獣を狩りするようになってからは、犬の祖先と競合するようになってきて、
イヌ属の能力の高さに目を付けて、競合するよりも共存して、お互いに補い合うようになっていったのです。
こうして、人と犬が一緒に暮らすということが始まったようです。

また一説には、人間が狩猟生活で移動しながら生活していた時に、ジャッカル(トマークタス)が人間の残飯を得るべく常に側におり、
平気で火に近づき、見え隠れしながら食料を奪ってゆくジャッカルは邪魔ものでしかなかったのです。
ですが、そのジャッカルが危険をいち早く察し、仲間に知らせる警戒音を出して逃げだすことから、あえて食料を与えて側に置くようになったのです。

そんな中、親を失ったジャッカルの子を人間が育てたことから、同じ社会性を持つ人間と犬の祖先が一緒に暮らすようになり、
お互いに補完し合って暮らすようになったことから、人と犬の一緒の暮らしが始まったとも言われております。

一緒に暮らしているうちに、人間と動物の間にも仲間としての感情が生まれ、補完的な関係から、精神的な安らぎを人にもたらした初めての動物が犬の祖先だったのです。
その後、同じ大きさでも知能に優れ、より近い社会性を備えた狼が選ばれるようになり、改良を重ねて犬の種族が人のパートナーとなっていったのです。

原始時代にいおても、現代においても、犬は人に安らぎや癒しを与えてくれる最良のパートナーだったのですね。

最初は限定的な関係で、それから補完し合うようになり、条件的な付き合いから歴史を積み重ね、
人と犬の心身的な距離が近くなり、徐々に関係が深くなってゆき、人は犬の魅力に惚れていったのでしょう。

こうして、人は犬の持つ魅力に惚れこんで共に暮らすようになってきたのですから、
家族のひとりとして愛することでしょうし、愛する犬を喪えば悲しいのは当たり前で、
犬は犬であっても、他の犬とは異なり、ただの犬ではなくなっているのです。
家族のひとりとして愛されるようになってきたのです。

これだけ時代が経って、人と犬の交わりが深まって、家族のひとりとなってきているにも関わらず、
「たかが犬が亡くなったくらいで…」という人は、過去から進歩していない人種なのかもしれません。
過去にも犬の祖先に弓を放っていた者だから、現代でもそのような言葉を放つのかもしれませんね。

 

4. 人と猫とのまじわり

どうやら、家猫の祖先は古代エジプトから始まっているようですね。

紀元前2000年くらいから、猫は疫病をもたらすネズミや恐ろしい蛇を捕まえてくれる益獣として人の側に置いていたようです。
また、その独特の独立的な生き方が他の家畜にはないものであり、太陽の運行に沿って変化する瞳の神秘などから特別な生き物として考えられ、
やがて猫は神聖な存在として崇められるようになっていったのです。

その崇拝の様子は、エジプトの美術展などに行けば見られると思いますが、猫の頭に人間の身体をもつ猫神は、
歓喜と太陽の豊穣の温かさを示す女神バスト(バステト)とされております。
また、有名なものでは太陽神の象徴であるスフィンクスは、頭部が人間で胴体がライオンとなっております。

猫信仰のバストとライオン信仰のテフヌトは時に同一視されることもあり、
バストとテフヌトは太陽神ラーの娘と考えられ、太陽の左目として温かさを表す神とされる一方で、月を表す神ともされています。

中世のヨーロッパでは、猫の瞳が太陽の運行や付きの明かりに沿って変幻自在になる神秘性や二面性から、
魔女の手下として考えられ、猫派良い意味でも悪い意味でも神秘性を備えた存在として見られてきたのです。

さらに、猫の瞳の神秘性をアイルランドのケルト人は、「猫の目を入り口として、人間は他界を知る」ことができると考えられており、
ケルトに代表される渦巻き模様は、猫の瞳を象徴としており、生命の永遠性や輪廻転生のシンボルともされているほどです。

私自身も猫の瞳によって、種族を超えた言葉や愛情、その瞳の奥に宿る神秘性に魅せられた一人で、
ケルト人が言うように、猫の目を通じて他界を知ったとも言えます。(過去生はケルト人だったのかなぁ)

猫たちの持つ魅力に引き寄せられ、猫は家に上がり込み、人は猫と共に暮らすようになり、
いつのまにか家族のひとりとして迎えるようになってきたのです。
猫と人の関係でいいますと、人の方が猫の召使という感じがするのは私だけでしょうか。。。


犬や猫にとどまらず様々な動物たちが神々の使者として、人間と自然(神)との関係性を回復させるために地上に使わされ、
私たちと心の絆を深めて、大切な何かを伝えようとしているのでしょう。
古今東西を問わず、動物たちは人に癒しを与えてくれる目には見えない羽を備えて天の使いだったようですね。

世界的に有名な詩人や貴族においては、愛犬のために大きな石碑を建てたり、お墓を作ったりして、
古代エジプトでは愛猫のために丁寧にミイラ(寵愛されていた表れ)にして、一緒の墓に入ったりして、
時空を超えて多くに人たちからペットたちは愛されているのです。

ペットへの思い入れは、今に始まったことではなく、過去にも同じくあり、
昔から人と動物は心を通い合わせていたのですね。

それなのに、ペットロス症候群は人との関係を築けない現代病のように考える人たちもおり、
そんな人たちこそ、心を交わし合うことを知らない現代病に患っている人なのかもしれませんね。

 

5. あの世とこの世

この世で生を終えた者たちはいったいどこに行くのでしょうか?

この世で生命を終えると、魂は体から離れてあの世に行くと考えられております。
一般的には、天国とか浄土などという名称で呼ばれることのある精神世界があるのです。

仏教では、あの世のことを考え思うよりも、まずはこの世のことを考え思うことを優先しますので、
お釈迦様はあの世のことを、ほとんど語りませんでした。
あの世での幸せを望むよりも、生きている今が幸せになることのために、思うことよりも行うことを大切にして、
現実に即して生きることを望むことが、確かに正しい生き方でありましょう。

「そうだとしても」と考えてしまうのが一般的なことですから、仏教の世界観ではあの世とはどんな世界となっているのでしょうかね。

仏教では、世界を大きく二つに分けております。
一つは「輪廻する世界」、もう一つは「輪廻しない世界」とに分かれます。

この二つの世界の違いは、「輪廻」するか・しないかの違いです。
輪廻とは魂が生類に生まれ変わり何度も転生することをいい、生まれ変わりのある世界で、輪廻する世界とはこの世であり、現世のことをいい、
輪廻しない世界とは、この世の迷いから悟りを得て輪廻しない天上界に生まれ変わることで、あの世とか浄土などと言われております。

生ある者は、生まれ変わり、死に変わり、また生まれ変わりしており、時には動物にもなり、時には人にもなり、
様々な命での役目や定めを担い、この世での修行をするために、生ある姿を借りてきているのです。
そんな輪廻転生する世界の1つが、今私たちが暮らしている人間界というところです。

輪廻する世界は5つ(下から)あり、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道とあり、輪廻しない天道の6つの世界のことを、
六道輪廻世界と言います。

生を終えた魂は、この6つの世界に生まれ変わるようになっており、どの世界に生まれるかは、生きている間に行った所業(功徳)によって行き先が決まります。
悪を為した者たちは、その所業によって下の世界に生まれ変わり罪を償うべく罰が待ち受けており、善を為した者たちは、その功徳によって天に生まれ変わるのです。

生を終えた魂は、現世と来世の中間にある世界で、どの世界に転生するのか裁判のような審査を受けるのです。
この期間は49日間で、7日ごとに7人の審査官から審判を受けるのです。

まずは、泰広王から審査を受けて、あの世とこの世の境界となっている川を渡ります。
この川には3つの渡り方があり、この世で功徳の高い者は船や橋で渡ることができ、この世での功徳の低いものは浅瀬を渡り、悪を為した者は深い濁流を渡らなければなりません。
そんな3通りの渡り方があることから、3つの途(みち)『三途の川』と呼ばれます。

次には、初江王から殺生についての審判を受け、その次には宋帝王から邪淫の審判を受けます。
次には、五官王から言動についての審判を受け、その次には有名な閻魔大王の審判が待っております。
ここには「浄玻璃」という水晶で創られた鏡があり、生前の悪業のすべてが映し出され、生前の罪についての審判が下されます。

この閻魔大王の審判により、ほぼ審判は終わり、転生先が決定となるのですが、遺族の追善供養や懇願に応えて最終審判は、
次の変成王に委ねられることになります。

変成王のもとでは、今までの王からの報告に基づいて再審判を行い、過ちのないように念には念を入れて49日目に泰山王に最終審判を委ねるのです。

まるで、この世の裁判制度のようですね。
というよりも、裁判制度の方が真似をしているのでしょうけどね。

こうした生前に行ってきたことの審判を受けて、鳥居をくぐると、その先の世界に生まれ変わるようになっており、
苦に満ちた地獄に落ちる者もいれば、争いばかりの修羅に落ちる者もおり、この世にて再度学ぶ者もいるし、天に生まれ仏となる者たちもいるのです。

さて、そうなりますと、私たちのペットたちは、どんな転生先が待っているのでしょうか?

ペットたちは、私たちにとって都合の悪いことはあったとしても、悪を為している訳ではありませんので、マイナス評価はありません。
私たちに幸せを与え、喜ばせ、笑わせ、心に寄り添って支え、助け、励ませ、私たちを愛し、心癒してくれましたので、
その生前の功徳の高い功績から天に生まれ変わり、仏さまとなることでしょう。

仏さまになれば、苦しみのない世界で過ごせますから、体の不自由はありませんし、食に困ることもなく、
快適な豊かな世界で安住することができます。
天に生まれ仏となると、姿形という囚われがありませんので、自由となるのですが、万能な世界ではなく、
私たちを観ること・護ること・導くことはできても、肉体を持たないので触れ合うことができません。

私たちからすれば、姿が見えることもなければ、触れることもできず、感じることができないのです。

あの世で、安らかに、朗らかに暮らして欲しいと望むものの、触れられないこと、抱きしめられないこと、見えないことが、
この世に留まっている私たちにとっては、とても切なく寂しいものでもありますね。

そうしますと、天上界に生まれ変わって仏さまとなると、転生しないので生まれ変わって来れないことになってしまいますが、
望みさえすれば転生することはでき、その姿を選ぶこともできるのです。
ただ、苦しみのない世界から苦しみのある不自由な世界に赴くことは、地獄での苦しみの16倍の苦しみに値するほどの落差があると言われますので、
仏さまとなって、また生まれ変わってこの世に命の姿でくることには大きな抵抗があることかと思います。

それでも尚、仏の世界から生まれ変わって、下の世界であるこの世に生を受ける者たちもおります。

あなたが強くこの世での再会を望んだからです。
あなたが強くこの世での一緒の暮らしを望んだからです。

お別れの時にまたの再会を約束し合い、あちらの世で待つこともできますが、
私たちがこの世で悪を為さず、善を施し、功徳ある生き方ができるとは限りませんので、待っていても会えるとは限りません。

そこで、あの子たちは地獄の16倍の落差を愛情の絆からものともせず、
あなたとの再会と一緒の暮らしを望み、その姿と命の時間を借りてペットという姿で来てくれたのです。

一緒に過ごす命の姿として人の姿があれば、一緒の家族になるべく人の姿を選ぶこともできたことでしょう。
でも、人の姿では一緒に暮らす器がなかったので、ペットという命の姿で、あなたに出逢うべく、生まれ変わってきてくれた存在がペットなのです。

私たちとの過去からの約束でもって再会を果たす者もいれば、私たちの強い願いでもって生まれ変わって再会を果たす者もおり、
天上界で仏の道を歩むよりも、人と共に仏の道を歩むべく、命の姿を授かってくる者たちもいるのです。

下界に降りてくる仏さまとは、よほど優れた魂の持主であり、より純粋な魂の持主なのでしょう。
まるで、あの子の命の姿の中に見た魂のように。

あの子たちは天の仏さまだったから、魂が澄んでおり、心が純粋だったのでしょうね。
天から遣わされた仏さまであったから、私たちに幸せを与えてくれたのでしょう。

天から遣わされた仏さまであれば、きっと何かを伝えるべく役目や役割を担っていたことでしょう。
そのことに気づくかどうか、そのことを学ぶかどうかは、私たちに託されております。

あの子たちの生き方から、人生を学んだ人もおりましょう。
あの子たちの暮らしから、人生を学んだ方もおりましょう。
あの子たちの心から、人としての心のあり様を学んだ人もおりましょう。
悲しみや後悔から、愛に気付く人もいれば、生き方に気付いた人もおりましょう。

信仰する宗教や考え方によっては、そんな世界はおかしいと異を唱えることもありましょうが、
ペットたちは、私たちの元に遣われた天の遣い(天使)たちであったことは確かなようですね。

あなたは、そう感じたことありませんか?

次回は、「臨死体験」とでも題し、あの世とこの世についてお話しましょうかね。