31. 手紙供養とは、どのようなことをするのですか?

手紙供養とは、皆さんの気持ちを綴った手紙を仏前に上げて、手紙に記された想いをお届けするご供養のことです。
参詣して供養したいけど、都合や距離があって参詣できない時などに執り行なう供養の一つです。

参詣して供養される際には、仏前に写真をあげて、供物を添えて、ご供養しているのですが、
それと同じ事をさせていただいております。
ただ、参詣しているか、参詣していないかの違いです。

参詣するということは、ご自身で来寺して心を持っていらっしゃる訳ですが、
参詣せずとも、心を込めて手紙に記せば、心を持っていらっしゃるのと変わりはありません。
ただ、その身でもって来たのか、手紙に託して届けたかの違いです。

供養の際も、お経を挙げて供養が終わってから、掲げた写真がお守りになるようにと、ご祈祷してからお渡ししております。
手紙供養の際も同様に、同封された写真をご祈祷してお守りになるようにしてから、返信しております。

ご家族での供養の際などは、一人一人が持ち歩けるようにと、それぞれが気に入っている写真が同封されていることもあります。
また、同じ写真が複数枚あって、同じ写真を家族で持ち歩くようにしているご家族もありますよ。
居間に飾っているもので、家族みんなを見護ってほしいとのことから、大きく引き伸ばした額付きの写真ということもありましたね。

お手紙だって、家族それぞれが便せんに記したものを同封してある時もあれば、
それぞれに可愛くあしらった手紙を封してある時もありますし、寄せ書きのような感じの手紙もあります。

封がしてあれば私は読みませんが、封がしてなければ、どのようなことを抱いているのかと気持ちを知る上で、
お手紙を読んでからお経を挙げるようにしております。
その方が、気持ちが伝わりましょうからね。

その後、お手紙はお焚き上げして、お写真を返信して、終わりになります。

読込供養となれば、「そちらでお経を挙げてくださ」ということになりますし、
手紙供養となれば、それに「手紙を添えてお経を挙げてください」ということになります。

 

32. 手紙の書き方があれば、教えてください。

特に書式などはありませんので、ご自由にお書き下さい。

手紙供養の際の必要事項
・供養する子への手紙(封をしても、しなくてもOK
・供養(祈祷)してほしい子の写真(なくてもOK
・返信用の切手と宛先の記した封筒(ハガキサイズ以上のものが理想)
・別紙に供養する方の氏名、住所、電話番号、メールアドレス、
 供養する子の名前、種類、命日、年齢、
 供養を希望する日時など(日時の希望に添えないこともあります)
 を明記の上、お申込み下さい。
また、一緒に仏前に添えてほしい供物などありましたら、宅配便にて送ってください。

私宛のお手紙やお菓子などあれば、有難く頂戴いたしますが、
特に必要なことではありませんので、お気を使わず楽にしてください。

今も愛しているから、心からの供養するのであり、その意味では供養というよりも、
愛する子へのラブレターになるのでしょうね。
そうなると、お寺は想いを届ける郵便局で、僧侶は想いを届ける配達人ですね。

*多忙時など、供養後の返信には時間が掛かることもありますので、ご了承ください。

 

33. 合同供養塔に納めてお骨がなくても供養することはできますか?

できますよ。

他の似たような質問の際にも、同じことを記してありますので、そちらをご覧ください。

日本人という人種は、世界的に見てもお骨に固執する民族みたいですから、
お骨にまつわる質問が自然と多くなってくるものです。

お骨の中に魂があるのではなく、お骨は触れ合うために借りてきた姿であって、
魂は心に宿り、皆さんの心と共にありますからね。
お骨は無くても、あなたの心に想いがあれば、いつでも、どこでも、供養はできるものですよ。

お骨の中に魂があるとなると、不自由なことになってしまうのですよ。
個別に置いてあれば、、お骨壺の暗い中に閉じ込められていることになってしまいます。
合同にして埋葬したら、いっぱいのお骨でひしめき合っていることになってしまいます。

それでは可愛そうだからということで、お膳の上にでも並べて置いておきますか?

愛しいあの子のお骨であることには変わりありませんが、
可愛いあの子の面影はお骨にありますか?それともあなたの心にありますか?
どちらにあるかで、魂の居場所は変わることかと思いますが、
たぶん、皆さんの心の方に姿があるはずなんですよね。

何もないと手を合わせることができないから、お骨に向かって手を合わせたり、お位牌に向かって手を合わせたり、
お墓に向かって手を合わせたり、写真に向かって手を合わせたりしているのであって、
実は自分の心と向き合うための対象なのです。それを錯覚して、そちらにあるように思っているのですよ。
自分の心と向き合うための鏡の作用をしているのです。

自分の顔は自分では見れませんので、鏡が必要となりますが、
自分の心は自分で見つめることができますので、対象となる鏡がなくても、心との対話はできるのですよ。

お骨が無くても供養はできます。
写真が無くても供養はできます。

あなたの心に想いがある限り、供養はできるのですよ。

想いのない人は供養などしませんし、考えも悩みもしませんよ。

 

34. お骨を食べてしまったのですが、いけないことだったのでしょうか?

大丈夫ですよ。あなただけではありませんよ。

ペットの場合でも、人の場合でも、そういう方はおりますよ。
そのお骨の一部を食べることで、この身になって、自分の一部となって、
一緒に生きてほしいとの思いから、お骨をいただくことはありますよ。

あまり人に話さないだけかもしれませんね。
話せば変に思われたり、気味悪い思いを抱かれましょうからね。

変もありませんし、気味の悪いことでもありませんからね。
愛する者を喪えば、いろいろなことを思うものですよ。

それにね。お骨を分骨しているのと同じだと思いますよ。
カプセルに入れて身に付けているのと、その身に備えているのが違うだけで、
お骨の一部を分骨していることに変わりはありません。

分骨したお骨だって、いつかは土に還す日が必ず来るように、
お骨を食べたその身も、いつかは土に還す時が必ずきますので、
どちらでもいずれは土に還すことに変わりはありません。

見た目の問題や感じ方の問題で、思ってもいないことをすれば、
奇特なこととして見られますから、お骨を食べることに抵抗ある人はおりましょうね。
それだって、ちょっと視点を変えると、おかしなことになるのですよ。
魚の骨など素揚げにして食べたり、骨髄エキスのがらスープを飲んだりしていますからね。

対象が魚や食べ物ならいいのでしょうかね。
人を襲う大型の捕食者がいないだけで、太古の時代であれば、人間だって骨ごと食べられていましたよ。
骨はただの骨ですから。

食べ物を食べる前に、「いただきます」というのは、「命をこの身にいただきます」ということですから、
お骨をちょっと戴くことだって、命をこの身にいただき、共に生きましょうということですよ。

ずっと前のことですが、旦那さんを亡くなれた檀家さんの葬儀の際に、
旦那さんのお骨の一部を他の人に見られないように奥さんがちょっと食べて、
お寺詣りの時に私に
「若さんだけにしか話せないことなんだけど、お父さんのお骨を少し貰って食べちゃったんだけど、大丈夫かなぁ」
と言うので、
「大丈夫ですよ。いずれは私がお母さんのお葬式もしますから、その時に一緒にお墓に入りますよ。
 それまで預かっているこの体を大事にして下さいね。」
と言って、二人でにこやかに笑っておりました。

心がほぐれてからは、
「そういう想いがあることは嬉しいことでしょうね。お互いが好きになって夫婦なったのですから、いいことですよ。」
と言って、今度は二人で涙を湛えながら、握手しておりました。
そんなこともありましたね。

好きなればこそですよ。愛していればですよ。

 

35. 分骨すると天国でその部分が足りなくなってしまいませんか?

足りなくなることなどありませんよ。
大丈夫だと思います。

想いのある人は食べることもあるし、想いがあるから手元に置きたいと分骨するし、
想いがあるから、あちらで足りなくなっては可愛そうと思い、お骨を分骨しない方もおります。
ペット達はみんなに想われていて、幸せですね!
人の場合よりも、幸せかもしれませんね。

分骨したからといって、あちらで足りなくなるということではないと思いますよ。
だって、皆さんが拾っているお骨は目に見える大きなものばかりですが、
細かい骨の破片や粉になったお骨などは、他のペット霊園では骨壺に納めてくれませんよ。

ペット霊園ソウルメイトでは、細かいお骨なども最後にまとめますので、拾うことができますが、
他の霊園ではあまりしませんからね。人間の時だってそうですよ。

見えているだけ、見ている部分だけでは、お骨が足りなくなると思ってしまいましょうけれども、
そういうことであれば、天国には臓器のない人や骨粗しょう症の人ばかりで、健康な者は存在しないことになりますからね。
また、毛のないツルツルの人や動物ばかりで、ちょっと考えるとホラー映画みたいになってしまいます。

そうではなくて、体を離れた魂は自由になり、元の仏さまという状態に戻り、
元気な姿を取り戻しますし、不具合や不自由だったこともなく、健康な状態になることでしょう。

お骨の「ある・なし」でものを言ってしまうと、同じ人同士でも身体的なことによっては、差別することにもなりますので、そういったことに囚われず、配慮のある思いをしたいものです。

あちらの世では物質的な骨はありませんよ。
皆円満で自由な精神世界なのですから。