11. なかなか納骨することができません・・・

まだ納骨する時期ではないのでしょうから、ゆっくりでいいですよ。

四十九日で納骨できなければ、一周忌の時にすればいいし、一周忌でダメなら三回忌の時にすればいいのですよ。
その後だって供養の節目はありますし、毎月の月命日の度に考えてもいいのですから、
ゆっくりと自分なりのペースで大丈夫ですよ。

人にはそれぞれ時間や時期がありましょう。

時間の感覚は人によって異なりますので、ペースの早い人もいれば、ペースの遅い人もおります。
どちらがいいという訳ではなく、人それぞれというもので、その人なりの人生の歩みですからね。

時期だってありますよ。事が起こるべくして事が起こるように、人生の節目や岐路になっていることもあり、
早くてはできないこともあるし、遅くてはできないこともあり、ちょうどよい時というものがありましょう。

月日が過ぎゆくうちに、「もうそろそろかな」と思える日が来れば、もうそろそろですよ。
突然のことで、「よし納骨しよう!」と思えば、すぐに納骨することになりましょう。
こういうように思えたら、心の四十九日が訪れるのであって、日数の四十九日に限らなくてもいいと思いますよ。

ペット霊園ソウルメイトの場合は、私がいつも「ゆっくりでいいですよ」というように言っているので、
皆さんゆっくりとお家で過ごしておりますよ。
供養する際にも、「この後、お骨はどうされますか?」と聞いて、
自宅でということであれば、お家でゆっくりといられるようにお経を挙げるようにしております。

きちんと供養していれば、お家でもいいじゃないですかね。

ただ、いつまでもお骨の方を向いているのは、どうかと思うこともありあます。
お骨の中に魂が宿っているのではなく、心の方に魂は宿っていることでしょうから、
見ている方が反対になってしまっているのですよね。

人間って、目に見えることに囚われますからね。
仕方のないことかもしれませんが、本当はお骨の方を向くのではなく、心の方に目を向けてほしいと思っているでしょうね。

お骨が目の前にあると、どうしてもお骨の方に目が向いてしまうので、
納骨して、離れてみることで、心と向き合えることができたりしますから、納骨することや埋葬することを私は勧めますが、
無理に勧めませんので、自分の歩みのペースでいいと思いますよ。

 

12. そちらに納骨したいのですが、檀家になるということでしょうか?

ットの納骨では、檀家にはなりません。
ペットの納骨では、檀家になりません。
ペットのことを機に檀家なりたいということであれば、檀家になることはできます。

お寺経営のペット霊園で、「○○の会」「○○互助会」みたいな檀家制度みたいなものがある霊園があるから、
そういうことを考えるのかもしれませんが、当霊園ではそのようなものはありません。

他の霊園さんのことを悪く言う訳ではありませんが、
「入らなくてはいけません」「みなさん入会していますよ」
みたいな言い方されますと、仕方なく入らざるおえなくなり、ちょっと嫌な感じになりますよね。
そういうことがあるから、大丈夫かなぁという不安があり、こういう疑問が生まれるのでしょうね。

納骨しているからといって、お寺の経費や寄付などを仰ぐことも負担することもありませんが、
お寺のスペースを利用しているので、それでも納骨堂の年間利用料は掛かります。
(料金につきましては、【料金体系】というページをご覧ください)

檀家になるということは、ペット霊園の利用者ということではなく、
長福寺というお寺を菩提寺とすることですので、一時的な利用とは異なり、その後の人としてのお付き合いとなります。

こちらの霊園でペットの供養をされた方々で、お寺を気にいって、私の人柄に触れ、ご縁あって、
「うちの子を丁寧に火葬してもらって感動した」「こんなによくしてくれたから」
「こんな御住職さんだから自分たちの時もお願いしたい」
というように、ペットの火葬や供養を通じて、私を知っていただき、お寺の檀家さんになる人もいらっしゃいます。

人によっては、菩提寺をこちらに移したいとか、自分たちの代からこちらでと、有難い申し出をいただきますが、
これは難しい事案になりますよと説明をしますと、
「それなら、多くのペットたちの為にもお寺を維持してほしいので、お寺の護持会費を納入します」
という、とても有難い申し出もあります。

小さいお寺なので、皆さまの支援があるととても助かります。
ですが、そのために、ペット霊園を利用して入会などを勧めることはありませんので、ご安心ください。


ちなみに、長福寺の護持会費は、年間7,000円です。

 

13. 自宅から遠いのですが、そちらに納骨することはできますか?

できますよ。遠くの方でも納骨している方々がおります。

「遠くてお参りに行くことが少ないけど、こちらに預けている方が安心できる」、
「離れていても心は繋がっているので、横田さんのお経が聞こえる納骨堂で過ごさせてあげたい」
というようなことから、自宅との距離ではなくて、安心できる場所、安心できる人の所でというように考えて、
遠くてもお骨を納めにいらっしゃいますよ。

人によっては、
「自分が亡くなるまで納骨堂でペットのお骨を預かってもらい、自分の葬儀もしてもらい、四十九の供養後に、一緒に埋葬してもらう」
という方もいらっしゃいます。

こういう依頼の時には、一応先に申しておくのですが、
「どちらが先に亡くなるのか分かりませんので、私が先に逝ってしまったら、申し訳ありません…」と先に謝っております。

お骨を納骨することに囚われなくてもいいと思います。

お骨は自宅に置いておくけど、自宅の写真と同じものを飾り、供物や飾り物を備えて、
納骨堂にて供養している子たちもおります。
お骨は他の霊園に預けているけど、横田さんのところでも供養してほしいのでということで、
こちらには写真のみで供養している子たちもおります。

皆さんのしてあげたいと思うことをすることが、一番嬉しい供養であり、最高の供養ですからね。
一か所に留まらず、複数個所で供養したっていいし、お骨がなくても写真があればいいし、
お骨も写真も置かずとも毎日供養する永代供養という供養もありますからね。

囚われることなく、自由に、心のままに考えてみて下さい。

 

14. ペットにお経は必要ないと言われたのですが…

必要ないと言われれば、必要ないと思います。
人の時だって、必要ないと言えば、必要はないですからね。

必要と言えば、必要だと思います。
いや、あってほしいものです。

お経が必要ないかと言われると、確かに必要はないと思います。
しなければいけないことではなくて、してあげたいかどうかですから、その意味では必要ではないのです。

「今まで一緒に暮らせたことや支えてくれたことに感謝したい」という想いを、
お経に変え伝えるべく供養するのであれば、お経はあっていいと思います。
「あの子たちのあちらでの幸せを願いたい」「今のこの気持ちを届けたい」
「報告したい・伝えたいことがある」「また出逢えるように祈って欲しい」
というようなことを頼まれて、「お経は必要ありませんよ。自分でしてください」と断るのって、どうなのでしょうね。

お経が必要ないということで言えば、ペットは素直で純粋ですから、この世で何も悪いことをしておりません。
私たちに都合の悪かったことはあったとしても、人の為すような悪意のあるもの、自己満足な利敵行為などはないので、
悔い改める必要がないですから、お経が必要ないというようりも、葬儀の戒律の儀の部分が必要ないというだと思います。

お経というもは、あの世へのものではなく、生きている生者のためにあるものであることを考えれば、
あの世の者へお経は必要ないということになってしまいましょう。

それであれば、何でお経を挙げているの?とお断りした僧侶に問いたくなります。

ペットにお経を挙げてほしいと頼んだら、「ペットにお経は必要ない」と言われたそうです。
私も子供の頃、菩提寺の住職に、虐待されて殺された可愛そうな猫の為にお経を挙げてほしいと頼んだら、
「動物にはお経がない」と断られましたからね。

私の場合は、これがきっかけでお坊さんになったのですけどね!
お坊さんがお経あげてくれないのなら、自分がお坊さんになればいいとね。

お経が必要ないのではなく、お経がないのではなく、
ペットに対して、お経を読みたくないのではないでしょうか?
もしかしたら、それらしくお断られているのではないのかと疑ってしまいます。

お経を挙げて供養してほしいと頼まれているのですから、供養してあげればいいじゃないですか。
お坊さんなんだから、もう少し人の心を気持ちを分かってほしいですね。

お経は必要から挙げるものではなく、気持ちから挙げるものでしょうから、
あなたがあの子のために、お経を挙げてあげたいと思ったら、お経は必要なものになりましょうね。

 

15. お経は誰が読んでもいいものでしょうか?

はい。誰が読んでもいいのですよ。
お経は、ただそれだけで有難いものですから。

誰が読んでもお経はお経です。
さらに、想いのある人が読むお経なら、もっといいですよね。

お経は誰が読んでも供養があるもので、なにも僧侶である必要はありません。
お経に上手いも下手もないのです。
(私はお経が下手とお寺さんたちから言われますけどね…)

修行寺の御前様は、「上手でも気持ちがなければ意味がねぇ。下手でも気持ちがある方がええに決まっとるじゃろ」
と言っておりました。

誰が読んでもいいのですし、下手であったとしてもいいのですが、
皆さんが読めない代わりに、坊さんに頼んでいるのですから、お坊さんは気持ちを受け止めて、お経を挙げなければなりません。

お布施を頂くから読んでいる、仕事として唱えているのでは、困りますよね。
気持ちを察して、想いを感じてもらわないとねぇ〜。
たとえそうであったとしても、「お経はお経じゃ。ただそれだけで有難い」と御前様は言ってましたね。

(差別・区別して比べることが善くないことで、そのものを見なさい!ということですよね。
 でも、御前様のように達観してませんからね。気になるものですよね。)

お経があることが、まず有難いことなのですよ。
その次に、誰が、どんな気持ちで、読まれるのなら、なおさら有難いのですよ。
さらに上手だったり、声が良かったり、イケメンだったりしたら、よりいいのでしょうね。

その前にもっと大事なことがありました!
それは、お経を挙げてあげたい誰かがいることですよ。

死後にも想いは続き、愛している気持ちがある、そんな素敵な誰かがいることが、まず有難いことなのですよ。
それだけ愛せて、それだけ愛しい、そんな心から愛せる・愛した誰かがいるということが大事なのです。

お経は歌謡曲のように、ただ歌いたいというものではありませんよね。
「誰かの為に」というように、届けたい相手がいるのですよ。聞いてほしい相手がいるのです。伝えたい相手がいるのですよ。

歌謡曲でも同じことが言えます。
ただ歌うのではなく、想いを伝えたい相手に心を込めて歌うと、気持ちが伝わってきますよね。
ただ歌うのではなく、愛する相手に聞いてほしいという想いが、相手の心に響くのですよね。

お経も同じですよ。
想いのある人がお経を挙げることが一番ですよ!