26. 与えることは受けること

この世の中は「ギブ・アンド・テイク」で成り立っているとも言われます。

それなのに、どうしてペットたちから貰うことが多く感じるのでしょうかね。
今回のコラムは与えるものと受けるものの関係についてお話します。

愛するペットを失い、一緒に暮らせる日々の大切さや有難さを身に沁みて感じるものです。
そうすると、あの子たちからいろいろなものを貰ってばかりで、どれだけのことをしてあげたのだろうか?と、
今までを振り返ってみては、至らなかったことに後悔したり、懺悔して謝ったりと、思い悩み心が苛まれることがあります。
「私の元に来て幸せだったのだろうか?」
「こんな飼い主で幸せだったのだろうか?」
というように、あの子たちの愛情に対して、そのお返しなり、恩返しができたのだろうかと考えてしまうものです。

あの子は私が一緒に居て欲しい時には居てくれたのに、自分はあの子が居て欲しい時に、自分のことを優先してしまった。
あの子は私が辛いときにはそっと寄り添ってくれていたのに、自分はあの子が辛いことにも気付かず、自分のことばかりしていた。
あの子は私が飼いたいと迎えた子なのに、留守番ばかりさせてしまって、こんなことならもっと一緒の時間を過ごせばよかった。
というように、
あの子は多くの愛情を注いでくれたのに、自分はそれに見合う愛情を注いでいたのだろうか?
いつも貰ってばかりで、どれだけ与えることができたのだろうか?
と考えてしまうものです。

そう考えると、あの子は幸せだったのだろうか?と考えてしまいますよね。

そう考えてしまうのが人の心というものですが、
あの子たちの心を知る私としては、ちゃんと伝えなければなりません。
あの子たちはみんな、あなたと共に暮らせて幸せだったということを!

自分の至らなさやダメなところを、今になって気にしても仕方ありません。
私たちの至らないことなどみんな知っております。
だって、ずっと一緒に暮らしていたのですから。
私たちのダメなところだってをみんな知っています。
だって、なにも包み隠さず、ありのままの自分でいたのだから。

私たちは人前では自分を取り繕っていることが多いですが、あの子たちの前ではありのままの自分であったことでしょう。
そんなありのままのあなたのことを大好きでいてくれたのです。
あの子たちは、そんな私たちの至らないところも含めて全部好きと受け容れてくれたのです。

人間だから良いところも悪いところもあるのが当たり前で、完全な理想的な人はおりません。

いっぱい愛されたのは、ただあなたのことが大好きだからです。
あなたから思われること、あなたに声を掛けられること、あなたと一緒に過ごせることが嬉しかったのです。
そこにあなたがいたから、多くの愛情を注いでくれたのです。

あなたはただそこにいただけではありません。
あの子のことを誰よりも可愛く思い、誰よりも好きで、誰よりも愛していたはずです。
そのことを知っているのです。
その想いをちゃんと受取っていたのです。

あなたは与えていたのですよ。
当たり前のことすぎて意識したことないでしょうけれども、
そういうことがとても嬉しかったのですよ。

人間同士の関係においても同じようなことがありますよね。
相手は意識していなくても、とても嬉しいことがあるように。
何気ないことが、とても有難く感じるように。

多くの愛情を注いでいたから、多くの愛情を貰ったのであり、
この世の法則でもある「ギブ・アンド・テイク」をしていたのです。

与えることは、受けることであり、与えていたから、貰っていたのです。
与えては貰い、貰っては与え、お互いに与えると同時に貰い、貰うと同時に与えて、
お互いに愛情を交わし合っていたから、幸せだったのではありませんか。

あなたが愛されたのは特別な要件を満たしているからではなく、あの子たちが何か特別な期待に応えたからでもなく、
あなたがあなたであるが故に愛され、あの子があの子であるが故に愛していたのです。

お互いに思い合う間柄では、愛情は呼吸するかのようで、吐いては吸って、吸っては吐くように、与えては貰い、貰っては与えていたのです。
吸ってばかり、吐いてばかりの呼吸がないように、貰ってばかりでもなければ、与えてばかりでもないのです。

それ以上に、この信頼関係からすでに無条件の愛情に至っており、見返りを求めていない誠の愛情を施していたので、
与えたことなど当たり前で、あの子だからだたしてきただけで、
その施した行為を気にしていないから、貰ってばかりいるように思えてならないのです。

貰ってばかりいるように思ってしまうあなたは、あの子と無償の愛で結ばれていたのです。

すべては出逢えたことから始まっているので、
「私の元に来て幸せだったのだろうか?」と思い悩むことではなく、
「私との出会いはどれだけ幸せだったのか?」と見つめ直すべきなのです。

あたなが施した無償の愛は多いとか少ないとか、ちょっとやいっぱいということでは計れません。
見返りを求める愛と見返りを求めない愛では比較にならず、あるかないかで見比べることはできても、
多い少ないということで見比べられるものではありません。

あなたと出逢えたことが幸せの始まりで、あなたから施された愛情は幸せ以外のなにものでもありません。

あの子が施してくれた愛情も幸せ以外の何ものでもなく、
あの子の愛情に対して報いることは、後悔や罪悪ではなく、あなたがあなたらしくあることなのです。

あの子の大好きなあなたがいつものあなたらしくあることは幸せなことで、
今まで以上に愛を学び、より人生を深め、より優しく、より思いやりのある人になれたら、さらに幸せなことでしょう。
至らないところのある自分を含めて愛してくれたように、至らないところを認めて包みこみ、自らを愛することから始めるのです。

無償の愛情を施し合える相手がいることそのものが、そもそも幸せなことであり、運命の祝福に感謝しなければなりません。
あなたの中にあった愛情が、あの子によって発露して、あの子の中にあった愛情は、あなたによって発露して、
お互いに相性の良い相手だからこそ施し合えたのです。

あなたはあの子のために時間を使い、あなたはあの子のために命を与えたのです。
あの子はあなたのために時間を使い、あの子はあなたのために命を与えてくれたのです。

愛を与える行為は心の表現であり、費やした時間は命であり、
あの子の中で活かされ、私たちの中でも活かさたように、
自らの与えてくれた命があるのですから、想ってくれたのですから、
そんな自分を認めて下さい。

多くを与える者は、多くを受取ることになるのです。
あの子からいっぱい貰っていたということは、いっぱい与えてもいたのです。

自分はそんなに与えていないと思っていても、あの子たちからすれば嬉しいこともあり、
あなたは気づいていないのです。
自分の優しさに。あなたは知っているはずです。
あの子はあなたの愛を受け止めていたから、あなたへ愛を施していたのです。
あなたは知っているはずです。あの子の優しさを。
あなたの優しさが、あの子からお返しされたもので、
元々、あなたの中にあったものなのです。

あなたの想いや優しさを終わりにしないでください。
見える対象や抱ける対象がなければ愛を施せないというのであれば、
それは無償の愛から見返りを求める愛や条件付きの愛となってしまいます。

あなたはあの子から何を学んだのですか!

これからも想い続け、お互いに愛を深めて行けば、またの再会もありましょう。
お互いが想い合えば、引き合う力は強くなり、またの再会となりましょう。

与えることは、受けること。
想いを施すことは、想いを受取ること。

恩返しもお返しも遅いことはありません。
今からだって、いつだってできることです。

亡くなったからといって、終わりではありません。
姿が見えないからといって、終わりにしないでください。

あなたの中には貰った愛があります。
あなたの中には施す愛もあります。

これからも想い続けてあげてください。

あの子が大好きなあたなへ。

 

27. 思いが変わる時@

「思い」とは理性の伴なく思考のことですが、そこに愛情が伴う思考になると「思慕」となります。
一般的に記すと「想い」となります。

愛するペットを失って「思い」のままにならず、苦しんでいる方も多いことかと思います。
それは、自分の思い通りにならないからであって、自分だけの考えだから思うようにはならないものです。
そこに、自分だけの思いだけではなく、相手のことも思って物事を観ると少し変わって見えるようになり、
さらに、相手へ心を寄り添わせて「想い」に変えると、心にも変化が訪れてくることでしょう。

私たちはペットたちから一緒に暮らすことで、多くの愛情を貰ってきました。
貰ったということは、また与えてもいたのですけれども、多くの人が与えていたことに気づかず、
いっぱい貰ってばかりと実感するものですから、あの子は幸せだったのだろうかなどと考えてしまうものです。

いつも貰ってばかりで、もっとしてあげればよかったと後悔しているとしたら、
それは自分だけの「思い」という思考であって、愛情が寄り添った「想い」にまで至っていないのですよ。

そのように感じてしまうことも思ってしまうことも、実は「想い」でもあるのですけどね。

愛情を施していたから与えられたのであり、その行為が心から湧き上がる自然なものだから与えた実感がないのであって、
多くを与えていたにも関わらず気にしていないので、多くを貰っていたように思うのですよ。
そこには見返りを求めない無条件の愛情があり、施したことを全く気にしていないのです。

あなたの心にはいつも「想い」があったのです。
そのことをあの子たちは知っております。

もし、「私はこれだけ与えたのだから…」と見返りを求めている愛情であれば、
それは「思い」であって、素直な心情ではなく、心から溢れる愛情ではなく、
そのような「思い」では、あの子と心を深く通い合わせることができなかったことでしょう。

もし、見返りを求めて愛情を施していたのであれば、「もっと期待に応えてくれてもいいのに」となって、
あなたは後悔することなどなく、不平や不満を心に抱いたことでしょう。

見返りを求めている思いというものを施しても、思っている通りになって帰ってくるものではなく、
心が邪であるぶん見返りが少なく感じるものだし、期待しているものとは異なるものです。

だって、心が邪なのに多くの見返りがあったら、この世のバランスがおかしくなりますよね。

純粋な愛情や素直な愛情を施す時には、見返りのことよりも相手のことを想っており、相手のために心を尽くしているから、
心が澄んでいるぶん見返りは多く感じるもので、与えたことを気にしていないだけに、いっぱい貰っているように思えるのです。

貰ってばかりいてと思うのは、自分がそうのように思っているだけのことであり、
あの子たちは皆さんから心が寄り添った想いを施されたので、あの子たちは瞳を潤わせ幸せを感じていたのです。

「思い」返すのではなく、「想い」返してみてください。
あの子の瞳にはいつもあなたが写っていたはずです。
あの子があなたにくれた瞳にはあなたが宿っており、あの子の想いはあなたの心のでもあるのです。

あの子の立場になって想い返してみれば、あなたから「うちの子が一番可愛い!」と想ってくれている
あなたの笑顔があの子にとっての一番の宝物で、あなたからの心が寄り添った想いを貰っていたのですよ。

あなたは想いを施していたのですよ。

あの子の立場になって想い返してみれば、あなたと一緒に暮らした日々には多くの喜びと幸せがあり、
そんなあなたが大好きだから、あなたに心を施していたのですよ。

あなたは想いを貰っていたのですよ。

あの子の大事な想いを、あなたの思いで削らないでください。

いっぱい貰った素直に受け止めればいいのに、
あの子が幸せだったのかと思い、あの子の幸せを削らないでください。

あなただけの思考である思いやあなただけの思い込みを押しつけるのではなく、
あの子のことを想い、あなたの心をあの子の心に寄り添わせてみてください。

あなたの思いは、想いに変わり、何かが変わってくることでしょう。

お互いに心を寄り添わせ、心を施し合っていた日々のように、
あの子への素直な想いを抱きましょう。

それでも思うことはいろいろとあり、なかなか素直な気持ちで、
囚われのない目の物事を観ることは難しく、素直な想いが抱きづらいこともありましょうけれど、
あなたとあの子の間には、素直な想いがいっぱいあったことを想い出してください。

そう!その気持ちですよ!

 

28. 思いが変わる時A

愛する者を喪って、命の大事さを痛感し、多くの方が一緒に過ごす事のできた命の有難さを知ることでしょう。
普段生きているのが当たり前で、命ということについて想うことが少ないから、
愛しい者を喪って初めて、生きていることの有難さ、命あることの有難さを知るのでしょう。
そんな命あることの有難さに気付いた時、思いが変わることがあるものです。

今まではうちの子だけに愛情を注いでいたので、他の命にまで想いが至らなかったこともありますが、
うちの子と同じように他の子たちにも命があるのだと改めて想うようになり、
今までとは違い他の子たちへも愛情が注がれるようになるのです。

それまでは愛情を注ぐ対象として、目の前にうちの子がいてくれたので、いつも傍にいる子へ愛を注いでいたのですが、
その子が亡くなり目に見える対象としての姿がなく、目に見える他の子たちへ心から湧き上がる愛情を傾けられるようになるのです。

ペットと一緒に暮らしたことで、自らの心の中にあった優しさというものが、
他から与えられたものではなく、心の内側から湧き上がる気持ちであることを知るのです。

あなたが優しい人だと知っているから、そんな心に触れたくて、
あの子たちは命の姿を借りて会いに来たのです。

あなたは大切なあの子と心を分かち合ってきただけに、あの子に似ている子たちやあの子の友達をも愛しく感じ、
他の子たちにもあの子と同じように尊い命があることに目覚めるのです。

そうして、あの子たちの仲間にも目を向け心を傾けるようになり、他の子が幸せであってほしいと願うようになります。
辛い目に遭っている子がいるとしたら、うちの子が辛い目にあっているかのように心を痛めるようになるのです。
不遇な子がいれば、うちの子が不遇であったらと思うと心が穏やかではいられません。

このようにして、うちの子という限られた命から愛は広がり、他の子たちへも想いが至るようになるのです。
愛は限られたものではなく、愛は幅広いことを知りましょう。

他の動物たちのことが気になり出すと、今まで知らなかった情報を目にするようになり、
身近なところからペットの保護活動に参加したり、里親のボランティアをするようになったり、
活動まではできなくても、資金や物資の面でのサポートをするようにもなるものです。

さらには、実験動物などの現実を知り、深い悲しみと怒りの感情が入り混じった、何とも言えない気持にもなるものです。
そうして、少しずつ視野が広まり見識が深まり、一つの命を心から慈しむ気持ちが広がってゆき、
より広域な動物保護や自然保護にも目が向き、地球環境問題へと意識が高まってゆくこともあります。

あなたの心はあの子によって、深くも広くもなっており、より多く、より広く、
愛を施し、慈しみを抱く優しい人になれたのです。

一個人としては、愛を与えて貰い、愛を教えて貰い、愛することのできる人にまでしてくれても、
多くの命を救えるほど力までは備わっておりません。

そうなると、意識が高まるにつれ、自分にできることの限界に気づき、
想いがあるのに、気持ちはあるのに、どうにもできない現実の前に心を打ちひしがれ、
何もできない自分の至らなさや微力な自分に思い悩み、人間の愚かさということに心を痛めることでしょう。

優しく慈しみのある人だからこそ、そういうことに思い悩むのでしょうけれども、
そういうあなたと暮らした子は、そんな優しさと慈しみに触れていたのです。
どれだけ幸せで喜ばしいことであったことでしょう。

たった一つの命と心を通い合わせたことで、たった一つではない命にま心を施すようになり、
一緒に育んできた愛情が命の枠を超えて、限定的な愛から普遍的な、より大きな愛となってゆくのです。

一つの命を深く愛したことで、いっぱいの優しさを施せる人となり、
いっぱいの優しさを多くの命に対して広く施せる人でもあるのです。

この世に生まれてきた命のすべてが幸せになるべく存在し、あの子と同じように愛されるべき存在であり、
この世には尊い命がいっぱいあることに目覚めるのです。

そして、大切な命が自分にもあり、他人にもあり、共に尊い命であることに気づき、
自らの命は多くの他者によって活かされていることを知るでしょう。

あなたがあの子と出逢い、多くのことを与えられたように、
出会いという縁の大切さを実感すればこそ、いろいろな人や物事とのご縁も大切にでき、
あなたはあの子と出逢った時よりも、より良い人となるのです。

あなたが目覚めた人になるよう、あの子は命で教えてくれているのです。
あなたの中に優しさと慈しみがあることを知っていたのです。

共に心を育んできたあなたの心は、あの子の心でもあり、あの子の帰る故郷でもあるのです。
その素敵な心を大事にし、あの子の居場所を保てるのはあなたです。

より優しく、より思いやりのある人になれたら、あの子は嬉しいことでしょう。
あなたが幸せになり、笑顔の日々があれば、心は穏やかで居心地の良いところとなるでしょう。

命の姿がある時の「お互い」から、命の姿が魂の姿となり、あなたに宿り「共に」と変わり、
これからの人生をあなたの心と共にあり続けることでしょう。

あなたはもう、一人ではありません。
心に宿す素敵な者がいるはずです。

あの子から貰った愛により、あなたはより優しい人になっております。
あの子の生き様から学び、あなたはより強い人になっております。

あなたの心の中で共にあるから、あなたはより優しくなり、
あなたの心の中で共にあるから、あなたはより強くなれるのです。

思いが変わる時、幸せは外にあったのではなく、心の内側にあることを知るのです。
外に求めていた者は外側にいるのではなく、あなた自身となってその身の内にいるのです。

いつもあなたと共におりますよ。
あなたが想う時、いつも傍におりますよ。

あなたの命のある限り、あなたと共に魂もあります。
あなたが想い続ける限り、あなたを見護り導くことでしょう。

あなたの思いが想いに変わる時、
あの子の思いではなく、あの子の想いを感じることでしょう。

 

29. 夢物語

愛するベットを喪い、もう一度だけでもいいから会いたい、触れたい、抱きしめたいと思い願うと共に、夢でもいいから一目見たいと多くの方が思うものです。
人によっては、「夢に出てきてくれた」という話しを耳にすることもあり、私も夢を見たい、うちの子も夢に出てきてくれないものかと期待を抱きます。

夢を見れた人は幸せですが、夢を見れない人は、期待を抱いているだけに落胆するのです。
「私はまだあの子の夢を見たことがない」「私のところには現われてくれない」「私のことを忘れてしまったのではないのか」
というように、夢で見ることができないことを切なく思い、寂しい気持ちになるものです。

そうした、夢に見れない、夢に出てこないという質問やお話をされることが多かったので、今回は夢についてちょっと考えてみたいと思います。


そもそも、古来より言われていることには、『夢とは儚きことである』とされ、夢は見れたり、見れなかったりするもので、
見れたとしても一時のものですから儚いことであるとされてきました。
昔から言われ続けていることには耳を傾けるに値するものがあり、夢に見れたらラッキーというもので、
想い望んでいる夢は見れないことが多く、そんな夢は見れないのが普通なのです。

普通に考えてみればその通りで、見たいと思う夢など見れるものではないのですが、
夢でもいいから一目会いたいと切望する想いや期待が、見れる見れないと私たちの心を一喜一憂させるのです。

見たい夢を見ることができる世界であったとしたら、みんな寝てばかりで睡眠ばかりして現実逃避してしまうことでしょう。
だからこそ、古来より夢は儚きこととされてきたのです。

人の思考というものは昔から変わらないことばかりですが、時代は進歩してきて夢についていくつか解明されてきたことがあります。
夢を見るということは、睡眠することでもあり、前提として心身を休息させるためにあることを忘れないで下さい。

睡眠には浅い睡眠であるレム睡眠と、深い睡眠であるノンレム睡眠という2つの状態があり、
私たちが睡眠している時には、この2つの睡眠状態を90分周期で繰り返しているということです。

深い睡眠をしている時には脳は休息し、身体はいざという時の為に緊張状態にあり、
浅い睡眠をしている時には身体は休息し、脳が代りに働いております。
深い睡眠状態にある時には、脳が眠っているのですから夢を見ることはありません。
浅い睡眠状態にある時には、脳が起きているので何らかの夢を見ております。

私たちは睡眠するたびに、4.5回ほどの夢を実は見ているのです。
ただ、憶えていないだけなのです。

目覚めた時に夢見について憶えていないのは当たり前のことで、それをすべて記憶していたら脳は飽和状態になるか、多忙から疲労してしまいましょう。
たいだい憶えている夢というものは、変なストーリーでおかしな話であったり、つじつまが合わないようなものが多く、
印象深いから憶えているだけで、そんな夢ですら時が過ぎれば忘れ去られてしまうほどで、思い返すとその鮮明さは薄れ、こんな夢を見たという程度になってしまいます。

「夢日記」という夢に見たことを起床直後に記録している人だって、日記に刻銘に記されているから思い出せるだけで、
振り返って日記を見直すと「そんな夢見たっけなぁ」と思うことばかりです。
それほど、夢に見たことは憶えていないもので、起床時に憶えていた鮮明な記憶はすぐに薄れてしまうのです。

現実に自分が体験した記憶は鮮明なものとして憶えているのに、夢に見たことはそれほど深く記憶されないのは、夢の働きによるものです。
夢とは記憶の整理時間でもあり、意識していた・意識していないに関わらず、起きている時に身体を通じて情報収集した膨大な情報データを、
身体の機能を休めている時に整理統合している時に見るものが夢というもので、寝ている時に脳は働いてくれているのです。

私たちは意識していなくても、目にしたすべての映像情報、耳にしたこと肌で感じたことなどのすべての情報を蓄積しており、
収集した情報を整理整頓しないと脳はいっぱいになって日常生活をすることができなくなってしまいます。
起きている時に集めた膨大なデータはただ蓄積されただけで、何の選別もされておりませんので、寝ている時にいるものといらないものに振り分け、
必要な情報は項目ごとに分類して、所定の場所に保管するべく、あなたが休んでいる時にも一生懸命に作業してくれているのです。

そんな記憶の整理をしている時に夢を見ているものですから、知っている景色や登場人物が出てくるのです。
知らない景色や登場人物が出てくることもありますが、それらは意識していなかっただけで、街中ですれ違った人の情報であったり、
テレビや雑誌などで何気なく目にした事柄なども情報として記憶しているので、知らない事柄が出てくるのもおかしなことではありません。

そんな意識すらしていないほどの情報だって集めてしまうのですから、膨大な情報データとなり、それを短時間の処理しようとしているので、
パッパッと見て選別し、目についたことから処理と整理をしており、時系列や分類ごとに整理整頓している訳ではないのですから、
夢で見ている映像は、情報を整理している時の断片的な情報をつなぎ合わせてしまうので、つじつまが合わず、ストーリーも不思議なことになるのです。

そんなつじつまの合わない記憶の整理段階の一過性の出来事などを深く記憶しておく必要はないのですから、
夢というものは記録するに値しないことから忘れがちなものとなり、古来から言われるようにそもそも儚いことでもあるのです。

また、夢とは脳が起きている状態で視覚として見ておりますが、身体は休息していても体から得られる情報データを脳はは逐一集積しており、
夢を見ている間にも視覚・聴覚・触覚・臭覚・味覚などから送られてくる身体情報を同時処理しているので、その時々の身体情報が夢に混在してきます。

分かり易い夢でいいますと、ずっと昔のことになりましょうけれども、「お寝しょ」が一番分かり易いですね。
身体は尿意をもよおしているとの情報が脳に送られ、記憶の整理をしている最中に、優先事項として尿意という情報が割り込みし、
見ている夢に身体の尿意が反映されてしまい、夢の中でおしっこをしている夢を見たり、記憶の整理上として関連した水にまつわる夢を見たりして、
現実としてはお寝しょをしてしまうのであり、濡れてしまっているから違和感のある情報が送られ、変な夢にどんどん書き換えられてゆくのです。

それに加え、睡眠中は心の解放時間でもあり、私たちが日常生活で自覚している悩みや考え事、自覚していない思考や抑圧している願望なども、
内的な刺激として情報処理しているので、記憶映像として見る夢は様々な影響を受けているので整合性のないものになりがちなのです。

つまり、夢とはそもそも儚いことであり、夢のことで気持ちが沈むことも、儚いことなのです。

科学的に考えてみれば夢は儚いことかもしれませんが、
昔の人は夢のことを魂が身体から抜け出して経験してきたことと考えられていたり、
夢は超自然的な存在である神仏や悪魔からのお告げであるとも考えたられていたり、
言い得ていることもあるので、夢は儚いことと片付けてしまうことも、どうかと思います。

夢を見ている状況からいえば、自意識は休息し自我の働きは低くなっている上に、心を開放している状態ですから、
この世とあの世の境が低くなり、あちらとこちらが通じやすい状態でもあり、魂が経験していることとも考えられるし、神仏のお告げであるとも考えられます。

そうなると、夢は儚いことではないとも言えます。

夢は私たちの心理的な状況を示すものでもあり、精神世界との繋がりをビジョン化しているものでもあることから、
心理学的な夢分析やスピリチュアル的な夢解釈なども考慮してゆくと、夢は儚いことではなくなってきます。

ですが、夢分析や夢解釈については、いろいろな諸説があり、それぞれの思想や主義により解釈が異なるため、
見た本人以外には正確な解釈をすることはできないのかもしれません。
夢を見ている当人が解析しようにも、多岐にわたる知識が必要となるため、事実上は正確な解釈をすることができないことから、
ある程度までの象徴的な事柄からの解釈は可能であるとしても、占いのようなもので、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」となりましょう。

夢は儚いものだと決めつけてしまうと、それこそ儚いことですのでお話しておきますが、
皆さんは夢の中で愛しい者たちと会って、魂の交流をしておりますよ。
それも一日に何度も一緒の時間を過ごしております。

ただ、夢というものの性質上、特異な出来事については起きてからも憶えておりますが、
夢の中であの子たちと過ごしている時は、生前と同じく側にいるのが当たり前というような時ですから記憶されないのです。

子供が寝ている時に微笑んだり、笑っていたり、寝言で面白いことを言っていたりと、楽しそうな寝顔をしている時があるものです。
その時のことを朝起きて尋ねてみても記憶していないもので、大人になっても同様に幸せな夢を見ていても憶えていないものなのです。

よく、夢に出てきてくれないと言いますが、正確にい言うなれば、ただ憶えていないだけです。
夢の物語は特異なものでない限り記憶しないのですよ。

あの子たちと夢の中で共に過ごしている時間は、一緒に暮らしていた時と同様に、思い患うことがなく、いつも一緒にいるのが当たり前で、
いつか訪れる別れのことなど意識したこともなく、この幸せがずっと続くと思い込んでいた日のようなものですから、
一日に何度か魂の交流をしていたとしても、そのことは毎日のことですからいちいち記憶として留めておきはしないのです。

皆さんは夢の中で、あの子たちと会っており、
いつも魂の交流をして、素敵な時間を過ごしております。

あなたが寝ている時の寝顔は、あの子が見ていたあなたの顔であり、
あなたはあの子をちゃんと見ておりますよ。忘れるはずなどお互いにありはしませんよ。


話せばもっといろいろな視点から考えうることがあるのですが、ここでひとつ言えることは、やはり夢は儚いものだと理解した方が良いのだと思います。
毎日の睡眠で共に魂の交流をしていても、記憶として憶えていないし、憶えてしまえば現実逃避して寝てばかりとなってしまいますので、
どちらをとっても夢は儚いことになるのです。

儚いことを頼るのは儚いことだし、儚いことに希望を抱き一憂して落胆していることも儚いことだし、
夢は誰しもが見たい夢を見られるわけではないのですから、夢はやはり儚いものなのですよ。
夢に見たことを憶えていたらラッキーというくらいに心に留めておくのがよいのでしょうね。


そういった意味で、夢は儚いものではありますが、夢の心理的・身体的な情報処理作用を知っている者としては、
そのプロセスを逆用すれば思い通りの夢を見ることができるというものです。
以下、とても儚いことと思いつつ、思い通りの夢を見る方法を記しておきましょう。

まずは、夢は現実を表すものでもありますので、日々の体調を整え、就寝環境を良くすることが欠かせません。
布団の心地よさ、枕の度合い、睡眠時の服装、空調の調節をして万全の態勢を整えることです。

日頃の悩みや憂いがあっては変な夢を見ることになりますので、夢に出てきてくれないと思っていると、
潜在意識は「夢にでてきてくれない」という言語を実行してしまいますので、心の在り様も重要になってきます。

満腹状態のまま就寝しては、腸内環境の身体情報が混在して変な夢になりましょうし、トイレを済ませておかなければ水にまつわる夢となってしまいます。
飲酒していれば記憶はあいまいになりますし、度合いによっては酔いから悪夢となりましょう。
生理的な要求を済ませていなければ円満な夢にならず、抑圧された願望が変なストーリーを生みだし、欠落した物語になってきましょう。

具体的な方策としては、お風呂に入って血行を良くして一日の身体の疲れを癒し、体温を高温に保った状態から寝床に入り、
体温が低下するにつれて睡眠は導入されますので、寝る前にあの子のアルバムは動画を見ておいて、一緒に過ごした楽しい日々を記憶に留め蓄えます。
その際に、今の悲しみと寂しさを見比べてしまって涙するようでは夢見に影響しますので、注意しなければなりません。

夢は視覚だけではありませんので、触覚でも記憶を残すために、あの子の感触に似たもを触っておく、あの子の感触を思い出す、
ぬいぐるみなどを抱きながら導眠することでも、より良い夢見につながってきます。
自分のお肌がカサカサでは自分の肌感と触れる寝具で擦れて夢に影響しますから、保湿クリームを塗って美容に留意した方がいいに決まっています。

臭覚だって夢見に影響しますので、アロマなどで心をリラックスできるようにしておくのもいいですし、
あの子が使っていた物を近くに備えてみたり、臭いの残っている遺品があれば臭いを嗅いでおくことで記憶に留めるのも効果的です。

味覚だって夢見の一要素ですので、口腔環境を綺麗にするために歯を磨くことはもちろんのこととして、
マウスウォッシュすることもいいでしょうし、喉の渇きを潤すためにも一杯のぬるま湯を飲むこともいいことです。

聴覚から記憶に影響を及ぼすために、リラックスできる音楽やあの子と過ごしたような思い出深い曲を聴きながら導眠することもよいもので、
一緒に過ごした動画などがあれば視覚と聴覚の両方の記憶を促せますので再生することもおススメとなります。
最も効果的なこととしては、ノンレム睡眠になる自分のバイオリズムに合わせて動画が再生できれば、夢に見ることが確かなものになってきます。

このようにして、感情を記憶の操作をしてから導眠すれば、夢は心の記憶した事象を引き出して情報処理してゆきますので、
あなたが望む良い夢が見られることでしょう。

最後に大事なことは、せっかく微笑ましい幸せな夢を見ていても、起きた時に記憶していなければ、
いつもと同じく「夢に出てきてくれなかった」「夢に会いに来てほしかった」と落胆することになりますので、
睡眠環境だけではなく、起床環境を整えなければなりません。

目覚まし時計の音で目覚めるのであれば、これは以ての外です!
休眠している状態から急な覚醒を求められるので、脳は急な身体的な応対に追われ、悠長に記憶しておくことなどできず、
パソコンの電源を切るようなもので、記憶やデータなど消去してしまいます。
また、目ざまし時計を掛けて起きようとしている時点で、睡眠前から身構えていることになりますので、
心と体はリラックスすることをせず、いざという目覚ましの音に対応するべく備えてしまいますから夢見に悪影響を及ぼしましょう。

朝の目覚めが穏やかになるように、約90分間隔に訪れるノンレム睡眠とレム睡眠の時間サイクルを考慮し、睡眠時間と起床時間を計算します。
睡眠後にノンレム睡眠が90分間、次にレム睡眠が90分間と計算してゆきますと、目醒めのピークに時間合わせすると495分の睡眠時間が最適値となり、
睡眠してから8時間15分後に自然と目覚めることができれば、夢で見ていたことを記憶したまま目覚めることができましょうね。
その夢見を確かなものにするためにも、睡眠から7時間半の最後のレム睡眠の始まりに合わせて、音声ありの動画を再生することができればベストですね。

人は目を閉じていても明度を感じ取っておりますので、自然光である朝日の陽射しによって目覚めるのが一番心地よいものですから、
レースのカーテン越しの優しい陽射しで目覚めることができれば、見た夢を記憶に留めておくことができましょう。

都会の喧騒の中で、人の営みである音や光で目覚めるよりも、より自然な光と鳥のさえずりなどの自然の音で目覚めるのとでは、
目醒めの環境が全く異なってきますので、夢は見るだけではなく、憶えておくための目覚めの環境も大事なのです。

このようにして就寝環境と起床環境を整え、自らの心と記憶を操作しておけば、
心と脳は自動的に良い夢を見るようにビジョンを生成することでしょう。

さて、皆さんは想い通りの夢を見る方法の方が儚いものと考えますか?
それとも、想い通りの夢を見られること自体が儚いものと考えますか?

 

30. 悲しみに “ありがとう”

愛する者を失うことはとても悲しいことであり、胸の奥が痛み、胸が押し潰されるよう、胸が張り裂けるよう、様々な思いから心を痛めるものです。
心から愛しているから、心が痛むのであり、深く愛していたから、心底苦しい思いをするのです。
愛さなければ悲しまずに済み、愛さなければ苦しみはしないのです。

心を許せる存在が、あなたにはどれだけいますか?
心から愛せる存在が、あなたにはどれほどいますか?

多くの人が存在し、多くのペットも存在し、数多くある者たちが存在するこの世界の中で、
心を許し、心から愛し、ありのままで関係し合える者はどれほどおりますか?
あなたがあなたらしくいられる者はどれだけおりますか?

時を経て行けば、愛する者(愛した者)の数も増えることかもしれませんが、
同時期にはそれほど多く愛する者は存在しません。

愛は無限ですが、時は有限です。しかも、私たちの身体は一つしかありません。
愛は無限ですから広く愛することも、多くを愛することもできましょう。
しかし、私たちの身体は一つしかなく、時は常に流れております。
同時に数多くの者を深く愛するには限界があり、時の流れを止めるか、分身でもしなければ追いつきません。

そうなると、心から愛せる者は、あまり多くは存在しないのです。
多く存在しない、その者でしかない、代わりがいない、かけがえのない存在とあなたは出逢ったのです。

あなたはかけがえのない者を喪い、悲しみを知ったのです。
この世での生は短く限りあることを知り、命あることの大切さを心から実感したのです。

命あることの大切さについて、それまでは標語のごとく知っていただけで、
心から愛した者を喪ったからこそ、命の大切さを悲しみを通じて知ったのです。

命の大きさは種族の違いでないことを知ったのです。
命の重さは身体の大きさでないことを知ったのです。

命の有難さを愛する者と出逢い学んだのです。
命の尊さを愛する者と暮らし学んだのです。

もう、あなたは昔のあなたではありません。
今のあなたは命の大切さを知る人になれたのです。

あなたにも命はあります。
あの子が愛したあなたの大切な命です。

あなたの近くにも命はあります。
誰からか愛されている大切な命です。

あなたの遠くにも命はあります。
この世界には命がいっぱいあります。
みんな、あなたが愛した者と同じく、誰からか愛されている命です。

愛の喜びは多くのことを教えてくれます。
愛の悲しみはあなたに大切なことを教えてくれます。

悲しみを知る人だけが知っている。
心から愛したことのある人だけが知っている。

命の大切さです。

悲しみは失うことだけではありません。
悲しみが与えてくれたこともあるのです。

愛を知る人は時の貴重なことを学びます。
悲しみを知る人は時が癒してくれることを学びます。

愛する者と暮らし幸せを知り、愛する者を喪い悲しみを知り、
あなたは幸せの有難さを学び、心から愛せたことに感謝しなければなりません。

今も愛していることにも感謝しなければなりません。
心から愛せる者と出逢えたのですから、出逢いに感謝しなければなりません。
出逢いに感謝するためにも別れを受け容れましょう。

命は死すものであり、時は失われるものです。
出逢いがあれば、別れがあるものです。
そんなこと頭では知っていても、心から知ってはいなかったのです。

出逢いと悲しみが教えてくれたのです。
命が大切であることを。

あなたが愛したように、誰からか愛されている命がいっぱいあります。
悲しみを知る人が、人に優しくなれるのは、命の大切さを心から知っているからです。

命の大切さを知ったあなたは、幸せの有難さを知り、
悲しみを知るからこそ、喜びの有難さを知るのです。

命あることの有難さを知っているのですから、
命あることの大切さを知っているのですから、
あなたの側にいる命に感謝しましょう。
あなたの周りにある命に感謝しましょう。
あなたの遠くにある命にも感謝しましょう。

心から愛した者たちへ、素直に感謝しましょう。
そして、今も心から愛せることに感謝しましょう。

涙で現われた目は清らかで深く澄んだ瞳になります。
もう十分に涙で洗い流したことでしょう。
足りないのであれば涙してください。

深く澄んだ瞳で世界を見ると世界は命で輝いておりますよ。