21. 涙がかわくまでA
泣きたい時には大いに泣いて、いっぱい涙を流していいのですよ。
涙が尽きるまで、涙が枯れるまで、心のままに泣きましょう。
涙は素敵なものであり、愛しているから涙になるのであって、溢れる愛をとどめてはいけません。
涙の本質は愛ですからね。

涙は水の記憶となって、想いを天に昇華して伝えてくれることでしょう。
天に想いの涙が満ちれば、恵みの雨となって降り注ぎ、大地が潤い、命が宿り育まれることでしょう。
雨の後には空に虹が架かるように、あなたの涙が虹の橋を架けるのですよ。

目は口ほどにものを言うように、涙には想いがあり言葉があります。
詩人のハイネは、「涙には詩がある」と言っていたように、皆さんの涙には想いがあり、言葉あり、心の詩となっているのです。
虹の橋はみんなの涙で架けられた想いの涙でできているのでしょうね。


ここからはちょっと私のこと。

幼い頃のお伽話しの涙のひと雫で深い眠りから目を覚ましたり、生き返ったりする物語があり、
猫が虐待されて亡くなった時に、溢れる涙を注ぎ、涙と共に祈り、生き返ってくること信じて行ってみたものの、
現実はお話とは違い一度失われた命は生き返ることはありませんでした。

最後に、「ありがとう」という不思議な言葉を受取ることができたことが、その後の救いとなっているものの、
幼い時に信じて思っていた神様は、この時点で私の心から姿を消しました。
うちの猫は食べることも飲むこともできずに苦しみながら亡くなったのに、
無垢の命を傷つけた人間はどこかで普通に暮らしていると思うと、心は引き裂かれるように痛み、
「どうして、こんなことがあるのだ。こんなことがあっていいのか」と心は叫びながら悲鳴をあげておりました。

いろいろなことを思うたびに涙が流れ、悲しみの涙なのか、悔しさからのものか、怒りからの涙なのか定かではなく、
いろいろな思いが入り混じる複雑な涙がただただ流れてきます。
毎日泣いてばかりで、すべてのことが無意味で価値が無く、時間の感覚はどこかにいってしまい、
現実なのか夢なのか、なんだか意味不明な感覚になるほどずっと泣き続けておりました。

そんな理性と感性が混沌としている時に、ふと気がついたことがあったのです。
「そうか!神様はいるかどうかわからない。でも、すべてのものには命がある。
 ならば、見たこともない神様よりも、今ここにある命を大切にしよう。
 神様が小さな命を大事にしてくれないのなら、他の人間が小さな命を大事にしないのなら、
 命ある人間として、同じく小さな命を大事にすればいいんだ。
 私は人間として犯人と同じ力を持っているけど、力は心のありようで良くも悪くもなるのだから、
 私は人として与えられた命と力を動物たちのために良いように使おう。」

そのように、小学3年生の時に大切な命を通じて、無邪気に生きてきた時とは異なる人生という生き方に目覚めたのです。
それからは、今まで以上に人にも動物にも植物にも優しくなり、生きること、命あることは大切なことで、
心が大きくなったような愛を感じるようになり、愛するということが素敵なことだと分かり始めたのです。

あの時には、あまりの悲しみと怒りから神仏など消えてしまえ!と心の中から姿を消し去ってしまいましたが、
今思えば、神仏は私の思いで消え去るような存在ではなく、私が人生に目覚めるよう怒りの矛先を受け止めながら導いてくれていたのです。
無邪気で無知な子供だった私には理解できることではなかったことです。

それから、私の歩む人生に出会う多くの命を看取る中で、命は形を変えて生き続け、命という姿の中にある魂というものとなり、
私という人生を共に歩むよう心の中にみんなの居場所を作り、一緒に人生を歩むようになりました。

そして、大人になるにつれて多くの経験と考察を積み重ね、人生でするべきことを見出し、
思いが叶わない非力だった子供ではなく、思いを叶えられる自分の人生を生きられる大人になったのです。

心からの想いが何よりの供養と思っていても、心の片隅に引っかかる「お経」というものに憧れがあり、
「お経というものに力があるのなら、動物たちのためにお経を読んであげたい」と思うようになり、
自分の想いを叶えるべく出家をしたのです。

修行の中で「自分の想い」「私が」という「我」という囚われから解き放れ、「想い」「祈り」「お経」という純粋さに気づき、
「空」という自他の差のない境地を知ると、今までと変わらない世界が心の目で見れるようになり、世界が変わったのです。

自分のためにお経を求めて出家しただけなのに、自分と他人という差を取れるようになり、
うちの子たちにお経を挙げてあげたいと思う人たちの為にも、お坊さんであり続けようと想い、サラリーマンに戻ることを辞めたのです。

幼い頃、菩提寺の住職さんに虐待された猫のためにお経を挙げてほしいとお願いした時に、
「動物にはお経はない」と断られ、仏様もあるものか!と私の心から仏様は消えたのですが、
「あの時の想いを忘れずに、多くの人たちのためにお経を挙げてあげなさい」と、仏様はずっと私を導いてくれていたのですね。
ようやく神仏は心と共にあったことに気付いたのですね。

私は宗教書の中にあるものを学んだのではなく、私の人生で出会った多くの命そのものから学んできたものが、
たまたま宗教の中に多くあったにしか過ぎず、神仏の中にも命があり、命の中には心があり、さらに魂があり、
私は無神論者ではなく、小さな命を通じていつも神仏の姿を求めていた求道者だったのかもしれません。

神仏の像に神や仏を見るのではなく、石や木そのものに命を見、それを作った人の心を見、神仏を求める人の心を見、
形に囚われることなく命や心を見られるように、私が出会った多くの命が、命を通じて私に教えてくれていたのです。

囚われずに言えば、私は多くの動物という神仏に見護られていたのです。
そして、私が私らしくなるように、いろいろな経験を与え、いろいろな考えをさせ、さらにそれらのことに囚われないよう、
私が私になれるように導いていてくれたのです。

多くの別れや辛いことでいっぱい涙して泣きまくって、
私の涙が乾いた後に残されたものは、とっても素敵な宝物でした。

それは…
想いという心です。私という命です。

涙が乾いたあとに残ったものは、
あの子たちが大好きと思ってくれた私でした。

涙する前から変わりのない、至らない自分だったのです。
良いところも悪いところも含めて好きでいてくれたのです。

涙の後に、ようやく、そんなことに気づくのですから、また涙が零れます。。。
22. ソロモンの指環
ソロモンの指環とは、旧約聖書にある古代イスラエルの王様ソロモンが持っていたある指輪のことで、
この指輪をするとソロモンは人間以外の者と話すことができたとされる伝説の指輪があります。

動物好きな私としては、どんな指環だったのか興味がありますね。

ソロモンの指環と聞いて思い浮かべることに、動物行動学の分野でノーベル賞を受賞したコンラート・ローレンツの著書がありますが、
このソロモン王の指環の由来から本の名前になったそうです。

この著書では、多くの動物たちとのエピソードを深い洞察をもってユーモラスに書かれており、
ひよこの「刷り込み」という習性を発見したことでも知られております。
ローレンツ博士は、動物たちのことを「愛すべき隣人」と評し、動物たちと仲良くするためには、まず相手を知ることだと言っており、
自分の知っている動物となら魔法の指環などなくても話しができると記されております。

私たちも同様に愛すべきパートナーのことをよく知っており、魔法の指輪などなくても理解できたことかと思います。
一緒に暮らし、いろいろな姿を見ては、お互いに言葉を交わし合い、心を分かち合って、
少しずつ経験を重ねることでお互いに言葉を超えて対話ができていたことでしょう。

それが、生きている時にはできていたのに、亡くなってしまうと繋がりを失ったかのように、
亡くなった子のことを考えることができず、感じることができなくなってしまう人が多いものです。

お互いにこの世にいる時は異なる体を有しておりますが、どちらかが時を迎え個体を有しないとしても
お互いの絆が離れたり切れたりすることはありません。
死後には精神を共にし、心はいつまでも繋がっているものです。

その心の繋がりから、もう一方が時を迎えて個体を失えば、お互いに魂となり、
この世に体があった時と同じように同質となるだけで、生と死では在り方こそ違えども、
心の絆はその形態の違いによって変わるわけではありません。

生の前には死があって、死を迎えては新たな生があり、
生まれ変わり、死に変わり、また生まれ変わり、また死に変わり、
表を辿ってゆくと裏になり、裏を辿ってゆくとまた表になる永遠の象徴でもあるメビウスの輪のようなものです。

メビウスリングとは、帯を一回ひねって両端を繋げたような感じ(∽)のもので、
生と死の循環を示しているようでもあり、そのリングの裏表は生と死の一体を示しているようでもあります。
生命はこのメビウスリングのように繋がっており、姿は見えにくいものとなりつつも、ずっと続いているのです。

メビウスリングの表面をお互い一緒に進む時もあれば、表と裏となって同じくリングを進む時もあり、
生と死という表裏はあっても、お互いに繋がっており、同じく時を歩んでいるのです。

死別によって繋がりまで失われた訳ではありませんので、繋がりによって感じることはできるものです。
あなたの内側にある思い出という心の目で見て下さい。
あなたは独りではありません。いつもあなたの心の中にあり、人生を共に歩んでいるはずです。

愛すべき者とあなたは長い人生を共に歩むパートナーですから、
同じく命の姿があるときもあれば、一方が命の姿でもう一方が魂の姿の時もあり、共に魂の姿の時もあり、
いつの時代も共に歩む者同士として結ばれているはずです。

エンゲージリングが命の姿で共にあることを誓う指環であれば、
みなさんはいつの時代も共にある心の絆を誓ったメビウスリングがありましょう。

「ずっと一緒にいようね」「また逢おうね」「生まれ変わってきてね」
というように、様々な言葉でもって誓いをされたことでしょう。

メビウスリングには始まりも終わりもなく、裏も表もなく、あるのは永遠です。
必ずまた再会することになりましょうし、また出逢うことになるはずです。

あなたに想いがある限り、リングが失われることはありませんよ。


そうそう、話しはソロモンの指環について戻しますが、ソロモンの指環には秘密があって、その指環をすれば誰でも話せる訳でないように思えます。
想いがある者が話せるのであって、ソロモン王は様々なことへの関心や理解があり、様々なことを聞くということに優れた人物で、
すべての命が環のように繋がっており、人間だけが他の生き物よりも上に立つ存在でもなく、他の命によって生かされている命の循環について見識があったから、
大天使から指環を受け取ることを許されたのであり、その指環を持つ資格があったのだと思います。
知恵の賢者とも称されるように、賢く理解ある心があったから指環を持つに相応しいとされたのでしょう。

相手への関心や理解があるからこそ、声を聞くことができるのであり、
生命や自然との繋がりを理解していたから、命の環の象徴としてリングを受け賜ったのでしょう。

指環だけではダメで、心が伴わないとダメなのでしょうね。

逆に言えば、理解ある心があれば、リングがなくても心は通じ合うもので、
動物学者のコンラート・ローレンツ博士が言うように、理解ある心があれば動物たちと会話ができるのでしょう。

皆さんには優しく想える心がありますので、自分だけの視野で物事を見るのではなく、
心の目で物事を見つめ、あの子たちのことを理解してあげれば、
亡くなってからも、あの子たちと会話ができますよ。

あの子たちからのメッセージを受け取ることができますよ。
23. 星の王子様
私はサン・テグジュペリの「星の王子さま」という本が好きで、この本の中にはいろいろな思いがあり、
大人になってから読むと人生の教訓が詰まっていることに気づかされました。

この物語の中でも、星の王子さまとキツネが友達になるところが特に好きですね。

星の王子さまがキツネに「遊ばないか?」と言い、
「おれ、あんたと遊べないよ。飼いならされちゃいけないんだから」とキツネは言います。
王子「飼いならすって、それ、なんのことだい?」
キツネ「よく忘れられることだがね。仲良くなるっていうことさ」
王子「仲良くなる?」
キツネ「うん、そうだとも。おれの目から見ると、あんたはまだ、今じゃ、他の十万もの男の子と別に変わりない男の子なのさ。
    だから、おれはあんたがいなくなったっていいんだ。あんたもやっぱり、おれがいなくなったっていいんだ。
    あんたの目から見ると、おれは十万ものキツネと同じなんだ。だけど、あんたがおれを飼いならすと、おれたちはもう、お互いに離れちゃいられなくなるよ。
    あんたはおれにとって、この世でたった一人の人になるし、おれはあんたにとって、かけがえのないものになるんだよ…」
キツネ「おれと仲良くしてくれたら、おれはお日様にあたったような気持ちになって暮らしてゆけるんだ。
    あんたの足音がすると、おれは音楽でも聞いている気持ちになって穴から外へ這い出すだろうね。
    麦畑なんか見たところで、思いだすことって何もありゃしないよ。だけど、あんたがおれと仲良くしてくれたら、そいつが素晴らしいものに見えるだろう。
    金色の麦を見ると、あんたを思い出すだろうな」

というように話しをしているうちに仲良くなって、別れの時がやってきます。

キツネ「もう一度、バラの花を見に行ってごらんよ。あんたの花が世の中に一つしかないことがわかるんだから。
    それから、あんたがおれにさよならを言いに、もう一度ここに戻ってきたら、おれはおみやげに、ひとつ、秘密の贈り物をするよ」

それから、戻ってきた星の王子さまにキツネが言いました。

キツネ「さっきの秘密を言おうかね。なに、なんでもないことだよ。
    心で見なくちゃ、ものごとはよく見れないってことさ。かんじんなことは、目にはみえないんだよ」

岩波書店「星の王子さま」:サン・テグジュペリより


このお話の中にある、初めは十万ものキツネと同じなのに、友達になってからは、この世にたった一匹しかいないキツネになるということを知るのですが、
皆さんの子たちも他の人から見ると多くのペットとしてしか見えないのに、「飼いならす=仲良くなる」と、この世にたった一匹しかいないかけがえのない存在になるのです。

話しの中でも出てくるのですが、人間はみんな違った目で同じものを見ているものです。

ペットと暮らしたことがない人からすれば、他の十万ものペットと同じに見えるから、その子がかけがえのない存在であったとは見えず、
「たかがペットのことで…」と些細なことと思えることもあれば、
心理学者などの学術面からすれば、あくまでも心理的な事象で物事への反応として見えるから、その子を失った悲しみが深いものだと分からず、
「ペットロスの心理的背景は〜」と心理分析するだけでしかないのです。

ペットの人気があり需要があるからと、ペットビジネスをする人からすれば、ペットの姿はお金のように映っていることもあれば、
ペットショップでペットが売られていることから、ペットショップで買えばいいのだからと考え、
ペットを失って悲しむ人へ「またペットを買えばいい」と考えてしまうこともあり、十万ものペットと同じく見えてしまうのでしょう。

人によっては、ペットが心の拠り所だなんて、なんて淋しい人だと思うこともあり、
動物を人間よりも格下の存在と見下し、人との関係が作れない人として思われることもあります。

ペットを飼うということは、飼いならすことであり、飼いならすということは仲良くなるという意味で、
ペットたちと心を通い合わせた者たちからしてみると、あの子たちはかけがえのない存在であるにも関わらず、
他の人たちから見れば十万ものペットのうちの一匹でしかなく、心ない人たちにはこのことを理解することができないものです。

人間も動物も同じ命には変わりなく、お互いに通い合わせた愛情にも何の違いもなく、
種族を超えて、お互いを思い合い、お互いを愛し合い、共に素敵な心を分かち合ってきた者なのです。

大切なことは、目には見えないのですよ。
大切なことは、心の目で見なくてはなりません。

「大切なことは目に見えない。心の目で物事を見ましょう!」



物語の続きに、キツネが王子さまと別れる時に「泣いちゃう」と言いました。
すると、王子様は
「ぼくは、きみにちっとも悪いことをしようとは思わなかった。でも、泣いちゃうんだろ」
「じゃ、何もいいことはないじゃないか」
というように話しますと、キツネは
「いや、ある。麦畑の色があるからね」と言うのです。

大好きな者との別れでは、悲しくて涙してしまいますよね。
愛するペットとの別れにおいて、悲しくて悲しくてただただ涙が流れますよね。

でも、あの子たちは別れることについて悪気はないのです。
私たちを悲しませようとしている訳ではなく、
私たちを苦しませようとしている訳ではなく、
それなのに、私たちは悲しみで心は沈み、苦しみで心を痛めてしまい、
このままでは何もいいことがなく、出逢わなければよかったということになってしまいます。

泣いちゃうのは大好きだからで、悲しいのは愛しているからで、苦しいのはそれほどまでに思いがあるからで、
目の前から愛しい姿がなくなってしまうことが、なおさら辛いことなのです。

でも、麦畑の色と同じように、皆さんの心には色褪せることのない楽しい一時は思い出として心に残っております。
麦畑を見れば、あの子たちとの楽しい暮らしを思い出すことができます。
麦畑を見ずとも、心の中には穂先の実った豊かな麦畑と同じように、人生を彩り、豊かにしてくれた、思い出がいっぱい実っております。

喜びに満ちた楽しい時間を共に過ごしてきたからこそ、涙してしまうのですけどね。。。

「大切なことは目に見えない。心の目で物事を見ましょう!」


星の王子さまは、星に残してきたバラのことについて、こんなことを言っております。
「だれかが、何百万もの星のどれかに咲いている、たった一輪の花が好きだったら、
 その人はそのたくさんの星を眺めているだけで幸せになれるんだ」

大切な教えのようでなりません。
皆さんの愛するペットたちは、この世にたった一匹のかけがえのない存在であり、
同時に、すべてのペットたちも同様に愛するべきかけがえのない存在なのです。

うちの子と同じように誰からか愛されている愛しき者で、
その他の十万ものペットたちも愛しい存在で、その他の何百万、何千万もの動物たちも、
あの子と同じかけがえのない命なのです。

すべての命は尊いもので、人間だけが優れている訳ではなく、
すべての命はかけがえのない存在であり、種族や属性による愛情の違いなんてないのです。

「大切なことは目に見えない。心の目で物事を見ましょう!」


愛するペットを喪った人たちが、10万のペットの中の1匹を大切にしたならば、
その他の99,999匹のペットたちも大切にできる優しい人になっていただきたいと思います。

私たちが交わした一つの小さな絆から、より多くの仲間への絆となり、さらに大きな地球との絆へと至るよう、
とても大切な心の絆、命の大切さをあの子たちは涙でもって教えてくれたのです。

同じく仲間たちのことを思ってくれることは、とても嬉しく、とても誇りに思うことでしょうね。
あなたに愛されたことのある者たちは、あなたの優しさがお日様にあたっているように気持ち良く、
他の子たちへあなたの優しさを分けてくれたなら、金色の麦畑を見るように素敵に想えることでしょう。

皆さんにとって、あの子たちは、星の王子さまだったのではありませんか。

サヨナラのときに、秘密の贈り物をされたのではありませんか。

「大切なことは目に見えない。心の目で物事を見ましょう!」


私にとっては、ペットたちは大いなる教えを与えてくれました。
世界の宗教の四聖人たちが伝えたかったことを、彼らは小さな体で精一杯教えてくれました。

ひとつのものへの愛情が、すべてのものへの愛情に変わることを、
私の飼ってきた=仲良くなった子たちは教えてくれました。

私はあの子たちとのサヨナラの時に秘密の贈り物を貰いました。

大切なことは目に見えない。
心の目で見ることの大切さを…

皆さんも、あの子たちからサヨナラの時に秘密の贈り物をされたことでしょう。
24. キツネと葡萄
このタイトルからイソップ物語にある「キツネと葡萄の房」というお話を連想される方もいるかと思います。

このお話の大筋は、こんな感じです。

お腹をすかしたキツネが、美味しそうな葡萄が実った木を見つけました。その美味しそうな葡萄を取って食べようと飛び上がりましたが上手くいきませんでした。
何度も繰り返したのですが、どうしても葡萄には手が届きません。
そこでキツネは葡萄を取ることを諦め、苛立ちと悔しさから立ち去る時に、こう独り言をいいました。
「まだ、この葡萄は熟れていない。この葡萄はすっぱいんだ」

今回は、このキツネと葡萄のお話からスタートです。

この話の後日談では、確かにこの葡萄はすっぱかったそうです。
何事にも機が熟すというように、葡萄も時期になれば熟して美味しい葡萄になることでしょうけれども、
機が熟していない時にはどんな果実も酸っぱいものです。。

ちょうど愛するペットを失って、その死を受け容れていない状況や、自責の念から辛い思いをし続けている方、喪失感に苛まれ希望を失っている方などにとっては、
悲しみの中にあって、まだ機が熟していないとも言えますので、葡萄は熟れていないのですっぱいものとなるでしょう。
ですが、この悲しみも時間や事が経過すれば人生を彩る豊かな思い出となってゆくことでしょうから、いずれは甘い葡萄となってゆくものです。
でも、悲しみというものは、完全に消えることはありませんので、葡萄は甘酸っぱい葡萄となって、より味わい深いものとなりましょう。

まだ機が熟していないと、葡萄は酸っぱいのです。

このままではいけないとの思いからペットロスの悲しみから、何とかして立ち直ろう!何とかして脱しよう!と試みることかと思います。
ちょうどキツネが何度もジャンプしたように…。
いろいろと試みてみたものの、他の人たちのようにはゆかず、悲しみから立ち直ることができすに、諦めてしまうこともありましょう。

まだ機が熟していない葡萄のように。

未だに心から「ありがとう」が言えずに、「ごめんね」ばかり言っていることもありましょう。
本当は「ありがとう」が言いたいのに、有難かったことを十分に思っており、知っているのにもかかわらず、
何度ジャンプしても得られないから、悲しみから報われてはいけないとの思いから、葡萄はすっぱい事にしたのです。

まるでキツネのように。

物事には機が熟する時があるもので、時が至らなければ葡萄は酸っぱいものです。
例えジャンプして得ることができたとしても、それはまだ熟していない酸っぱい葡萄だったのです。
立ち直ろうと無理したり、明るく振舞ったり、努力して手にしたとして、その葡萄は酸っぱいものです。

後日談の葡萄のように。

葡萄が熟するのには時間が必要なように、悲しみや寂しさなどが癒えるのにも同じく時間が必要なもので、
努力することはいいことですが、無理をする必要はなく、機が熟すれば葡萄は美味しくなります。
あまりの寂しさから無理に新しいペットを迎えても、すっぱい思いを経験するだけです。

まだ熟していない葡萄のように…。

悲しみや寂しさと向き合わずに逃げてしまったら、時間が経っても酸っぱい葡萄だと思い込んだままとなりましょう。
悲しみと向き合い、何度も涙し、寂しさと向き合い、何度も涙し、ようやく手にする葡萄は甘酸っぱくなっていることでしょう。
泣くことを抑え、悲しみを表さず、いつもの自分を演じて、やせ我慢していても葡萄を手にすることはできません。

「あの葡萄は熟していない」と言ったキツネのように…。

だからといって、ただ何もしないで機が熟する時を待っていても、熟することはないのです。
キツネのようにジャンプしてみて、何度も繰り返してみた先に、得られる果実というものがあり、
ようやく手にした葡萄は芳醇な味わいがすることでしょう。


樹を熟すには豊かな大地と太陽の光と新鮮な水と爽やかな風が必要です。
思いを込めて育んでゆけば、樹には熟した果実が実るものです。

一緒に暮らした楽しみや喜びだけでなく、
この悲しみも、この苦しさも、すべてを受け容れたら、
あなたの心は豊かな大地となりましょう。

ずっと愛しているという想いは暖かな日差しとなり、
いつか再会できるという希望は煌めく日差しとなり、
あなたの心は照らされることでしょう。

ありがとうの感謝の涙は潤う水となり、
あなたから想われることは爽やかな風となり、
あなたの心の中にある葡萄の樹は育ち、甘酸っぱい芳醇な果実を実らせることでしょう。

キツネが欲した葡萄のように。

ただ何もせずに、近くを通ったら葡萄が成っており、それを奪って果実だけを得るのですか?
後悔と罪悪感から心を耕さず、今まで培ってきた大地を痩せさせるのですか?
辛い涙、苦しい涙ばかりで、せっかく実っている葡萄をダメにするのですか?
自分はダメな飼い主と決めつけ、心を嵐にして葡萄をダメにするのですか?
せっかく実った葡萄をただそのままにして腐らせてしまうのですか?

それとも、キツネのように「まだ熟れていない。酸っぱい葡萄だ」と言って去ってしまうのですか?

共に育んできた葡萄が実ってきているのに、
死んでしまったら何もできない、今さら何をしてもしょうがないと、収穫しないのでしょうか。

今まで一緒に収穫し続け、一緒に楽しみ、一緒に分かち、一緒に味わってきたのに、
最後の葡萄は酸っぱいと決めつけて、収穫しないのですか。


私ならたとえ熟した葡萄を収穫して、芳醇なワインにして、
再会した時に一緒に味わえるものにするでしょう。
みんなで分かち合い祝杯できたら、さぞ美味しい葡萄を味わうことになりましょうから。

一緒に暮らせた幸せな日々に感謝して、ありがとうの言葉を葡萄に込めて、
より味わい深いワインとなるように、思い出の中で大事にして熟成し、再会の時の祝杯酒としましょうね。

何事も機が熟していないと、酸っぱい葡萄のようなものですよ。
機が熟するには時間も行いも必要となりましょう。
25. 数が満ちると…
あらゆることには機が熟する時というものがあるもので、時が満ちるまでは変化が小さいのですが、時が満ちると大きな変化をもたらすものです。
流行などもそうですが、一部の人の間で流行っていたものが伝達して、ある一地域で流行するようになると、いっきに広範囲に拡大してゆくものです。
これは人間社会だから情報伝達によってもたらされる現象ですが、それだけではないのですよ。

ということで、皆様は「百匹目の猿現象」ということをご存知ですか?

私は小学生の頃に国語の教科書か何かで読んだ記憶があります。
このお話の内容は、ある日、1匹の若い猿が海で芋を洗って食べるようになりました。
その様子を他の猿たちは何をやっているのかと不思議そうに見ているだけでしたが、その猿の真似をして遊んでいた子猿たちはいつの間にか芋を洗って食べるようになり、
海で芋を洗ってから食べると、程よい塩味から美味しく食べられることを知り、他の猿たちも同じようにして食べるようになりました。
そうして、その群れの半数以上が海で洗い食べするようになると、不思議なことに他の地域の猿たちも同時多発的に全国で見られるようになったのです。
始まりは離島の猿からですので、個体が移動する手段もなければ、情報が伝達する手段もなく、接触の考えられない集団に芋洗いが伝わったというお話です。

これは、ある行為が集団個体数の一定数に達すると、その行為はその集団だけではなく、距離を越えて広がってゆくという現象です。

変化するきっかけとなる一定数量を便せん的に数値化すると、
それまでの99匹までの集団においては地道な変化であったものが、100匹目となった途端にその集団の大多数が影響を及ぼすようになり、
ある集団個数の半数を超えると、さらに他の地域でも同じ現象が起こり始めるというものです。

お坊さんになる前は広告代理店で働いておりましたので、情報伝達やマーケティング理論にも応用されている事柄であって、
世の中のある価値観がある程度に浸透すると、一気に地域を追って広がるだけではなく、共鳴することによって飛び火して広がってゆく性質をもっており、
「あることを真実と思う人の数が一定数に達すると、それは万人にとっての真実となる」というものなのです。

もっと詳しく説明すると、シンクロニシティーやユングの集合的無意識とか、経済学部出身としては、経済シェア理論などからも説明できますが、
ここは論文ではありませんので、ある価値観が占める割合が大きくなると社会全体に及ぼす影響があるということです。

なんでこんなお話からしているのかと言いますと、私たちの愛するペットたちとの共生が幸せで、より良いものとなってきて、
ペットと暮らすことの幸せが伝達してゆきペットブームとなり、流行によって多くの人がペットと暮らすようになるとある程度の割合を占めはじめ、
ひとつの社会においてペットとの共生は影響力を持つようになってきたのです。
「ペットは家族の一員」という宣伝広告のフレーズであったものが、これを真実と思う人の数が一定数に達しているから、
今ではペットは家族の一員という価値観が当たり前のようになってきているのです。
ひとりの家族として考えられるようになってきたので、病気になれば病院に通うし、亡くなれば火葬するようになってきました。

ですが、未だにペットを失くす悲しみまでは理解が及ばないもので、
人によっては、「たかがペットのことで…」とその悲しみを理解されないことも多々あり、
人によっては、「ペットの葬儀や供養なんて…」と奇特な人と思われ理解が得られないこともあり、
まだまだ亡くなってからの思い(想い)や考えまでには浸透していないものです。

故に「ペットロス」という言葉も、言葉こそはフレーズとして知っていても、
それがペットを失う悲しみとまでは知っていても、それがどのようなことなのかまでは理解されているとは言えません。。。

だから、未だに精神的に弱い人がペットロスになると思われてる節があるし、
ペット溺愛の人間関係に薄い人がなるとも思われていたり、ちょっとした精神病だと思われていたりもします。

愛する者を失うという喪失体験として、人を喪った場合と何も変わりないのですが、その対象がペット(動物)となると、
人間の場合とは異なると思われがちで、ペットロスは軽く扱われることもあれば、特異なケースとして扱われることもあり、
愛する者を失うという同じ事柄として理解されてはいないのです。

だから、ペットロスは軽いものだと思われている節があるし、
悲しみの時間が長く掛かることも、人の場合とは異なる深い想いがあることも知られてはいないのです。

これは、社会においてペットロスということがある程度の割合にまで達していないのでしょうね。
また、あまりに悲しいから、あまりに辛いから、語らず心に秘めてしまって伝達していないのかもしれませんね。
他の人に言っても理解されずに心が傷つき、他の人の話しても軽く思われ、辛く悲しい思いをすることから話すことを止めてしまうことも多々あります。

そういった中においても、誰かが少しずつでも、ペットロスについて語れるようになってくると、社会は変わる日を迎えるようになります。
社会における一定の割合に達するまで、ペットと暮らす幸せだけではなく、悲しみも語らなければなりません。
そして、悲しみの中には愛があることも語らなければなりません。
亡くなったら終わりではないことも、想いはずっと続いていることも。

この世の中で愛するペットを失った悲しみが理解される日がくるためにも語ってください。

分かってもらえないから語らないのではなく、分かってもらえる日がくるためにも語るのです。
私も小さい頃には理解してもらえないから語らずにおりましたが、語らなければ何も伝達せず、何も変わりません。
ペットの地位が低い変わらないままの世の中が嫌だから、嫌な思いをしたとしても語るようになり、
ペットのことを語ることで世の中を変えようと、周囲の人や出逢う人に想いを語り少しでも影響を及ぼし、
ペットの業界から社会を変えるべくペット業界に就職して、そこでペットへの想いを語ることで影響を及ぼし、
さらに広く社会に影響を及ぼすために広告代理店に転職し、そこで人とペットの共生を語ることで影響を及ぼし、
さらに深く社会に影響を及ぼすためにも「動物たちにお経を」ということで出家し僧侶となることで、世の中を変えて行こうとしているのです。

愛するペットを失った悲しみが理解されない世の中では、昔の私と同じ思いをする人が増えてしまいますので、
ペットを家族のひとりとして供養するべく僧侶として、お別れの場を変えようとしているのです。

ペットロスについて語るのに、ペット用品の販売・ペットショップの店員でもいいのでしょうけれども、お坊さんの方がより馴染みますし、
宣伝力としては広告代理店の営業マンの方がありましょうけれども、お坊さんの方がより深く伝えることもできましょう。

最近では、ペットロスの関連本もいっぱい出版され、いろいろな立場の方が執筆するようになり、
ペットを愛する人の中での一定数を満たしつつあるような感じがします。
ペットとの暮らしにということにおいては、社会での一定数を満たしている(ペット数の方が18才以下の人口よりも多い)ので、
書店では一般図書としての店頭に置かれるようになり、社会への影響力が及んできております。

それでも、まだまだペットの地位向上の為に、ペットと一緒に暮らし、一緒の暮らしの楽しみや幸せを語り、世の中に示しましょう。
ペットロスの理解へのために、愛するペットを失った悲しみを語り、一緒に暮らした日々に感謝し、世の中に示しましょう。

誰かが100匹目の猿のお話のように、誰かが100人目の人になりましょう。
そうすれば、追うようにして広がってゆきますし、飛び火して伝達するようになり、社会は変わってゆきましょう。
「ペットと一緒のお墓に入りたい」という人が増えれば、お寺や霊園の価値観が変わってくることでしょう。
「ペットの葬儀や供養をする」という人が増えれば、周囲の人たちの価値観が変わってくることでしょう。
そのためには、誰かが言わなければなりませんし、誰かが行動にしなければなりません。

ペットを愛する人が増え、幸せなペットたちが増えれば、世の中の価値観は変わってきますが、
ペットブームの陰ではペットを愛さない人、不遇なペットたちもおり、社会での一定数に満ちずに相殺されてしまいますので、
次なるステップはペットとの共生の啓もう活動や殺処分される子たちを減らす活動により、社会での一定数となってゆくことでしょう。

ひとりで世の中を変えようとすることはとても難しいことですが、難しいからといって不可能ということではありません。

あの子たちから貰った愛というものを、これからも想い続け、その想いを優しさんに変えて、
あの子たちの仲間たちへ愛情のお裾わけをすることができたら、社会全体の価値観にも繋がるのです。

ペットたちから貰った愛情から自らが変わり、心に優しさを抱く人が増えれば社会が変わり、
その優しい気持ちを少しでも他の子たちへお裾分けすることで不幸な子たちも減り、
さらに愛をお裾わけできれば動物や自然との共生も改善され、
ペットと人の縁が新たな命の絆となって、社会は優しさに包まれた幸せな共同体となり、
人と人も、人と動物も、人と自然も、人と地球も、より良い関係を育むことができましょう。

一人だけの力は無力に思えましょうけれども、一人の力は微力ではあっても、決して一人の力は無力ではありません。
一人だけの優しさでは世界を救えないと思えましょうけれども、一人の優しさが世界を変えるのです。

あの子たちから貰った愛の灯を心に抱く限り、あなたは優しくなれます。
そんな優しい人が多くなれば、人と動物、自然との共生ができるようになります。

個々の意識が変われば、社会全体の意識が変わるのです
心が変われば世界が変わるのです。

社会を構成する一定数になるためには、あなたの優しさが必要なのです。
あなたの優しさが世界を変えることになるのです。

亡くなった子を大いに愛し、今いる子を大いに愛し、人とペットの間に愛情の絆を築いて下さい。
そして、その愛情の絆を世に語り示してください。

あの子が世の中を変える100匹目となるかもしれません。
あなたが世の中を変える100人目となるかもしれません。

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